恒藤規隆とリン鉱石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:15 UTC 版)
恒藤規隆は日本における土壌調査の創始者とされる人物で、日本の食糧、土壌問題に取り組み、リン資源の発見、開発に一生を捧げた。恒藤はリン資源探査の過程でラサ島でリン鉱石を発見し、ラサ島鉱業所を創設してリン鉱山として事業化を成し遂げた。 1880年、駒場農学校を卒業した恒藤は内務省勧農局地質課土性掛に「雇」の身分で採用された。1882年にマックス・フェスカがドイツから来日して土性掛長に就任し、恒藤らに土壌調査の指導を行った。恒藤は12年間、フェスカの下で学び、土壌の専門家に成長していった。 フェスカと恒藤が日本各地の土壌調査を進めていく中で、日本の土壌のリン不足が明らかになった。当時日本で流通していた、人糞尿、魚肥、油粕などのリン酸の含有量も少なかったので、リン酸肥料の製造と施肥が日本の農業には必要不可欠であると考えられた。 当初、農家のリン酸肥料など化学肥料に対する関心は低かったが、日清戦争時の大豆粕の輸入の途絶だけでなく、北海道のニシンの不漁によって肥料の供給が逼迫したため、リン酸肥料など化学肥料の需要が徐々に拡大した。もちろんフェスカらのリン酸肥料の重要性に関する訴えも効果があった。 こうして、リン酸肥料の認知度が高まり、消費量は増大した。しかし、リン鉱石は国内では産出せず、全て輸入に頼らざるを得なかった。リン鉱石を全て輸入に頼っていることは、食糧の安全保障から見ても大きな問題であるとの認識が広まっていった。そこで国産のリン資源確保が大きな課題であるとみなされるようになった。
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