思想・事跡とは? わかりやすく解説

思想・事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 16:05 UTC 版)

猿渡容盛」の記事における「思想・事跡」の解説

天保6年1835年)父の師小山田与清入門し考証学学んだが、緊迫する幕末情勢においては物足りなさ感じそれ以前から神田明神下に平田篤胤訪れ復古神道傾倒した。容盛が井上頼圀語ったところでは、与清は容盛の与清訪問聞いた時、「君は春秋に富むから私の発言を後に証明できるだろう。篤胤の名は一人大いに掲がり、更に10年後は天下囂しく30年後は神として祀られるだろう。しかし、私は悲しいことにその頃には忘れ果てられるだろう。私が一生込めた群書捜索目録』は彼の刻下編述中の『古史徴開題記』に比べるべくもない。私の編著決し彼に知らせないでくれ。」と語ったという。 安政2年1855年1月11日水戸藩主徳川斉昭から彰考館和学西野新治を通じてキリスト教等について神道家としての意見求められ同月2月の2回に渡って建言書を提出した鶴峯戊申から国際情勢について的確な対外認識得ており、幕府開国政策西洋兵学採用理解を示す一方外交文書漢文用いないこと、参内する外国使節参内には位階位袍与え住吉神社大洗磯前神社奉祀すること、弓・矢は霊器なので廃さないこと、軍艦上代赭船倣い朱塗りすることなど、形式面に拘った迂遠な主張行っている。尊皇敬神大道興隆国体護持目的視、神祇官山陵復活一世一元の制採用等を主張し、父と同様キリスト教をさほど脅威視しない一方仏教激しく口撃し、法親王制の廃止等による神仏分離主張する元治元年1864年)「年中行事」「御神事式」「祝詞式」「御饌調進式」を著し武蔵国総社神事への社僧参加停止した慶応4年1868年3月29日府中宿宿泊中の東海道先鋒副総督柳原前光対し自社仏堂仏像社僧排除について伺いを立て7月社寺裁判所承認の下、本地堂・護摩堂鉄仏堂を取り壊し社僧還俗させて社人とした。8月17日には神領での仏葬禁止申請したが、これは却下された。

※この「思想・事跡」の解説は、「猿渡容盛」の解説の一部です。
「思想・事跡」を含む「猿渡容盛」の記事については、「猿渡容盛」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「思想・事跡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「思想・事跡」の関連用語

思想・事跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



思想・事跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの猿渡容盛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS