思想・事跡
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天保6年(1835年)父の師小山田与清に入門して考証学を学んだが、緊迫する幕末情勢においては物足りなさを感じ、それ以前から神田明神下に平田篤胤を訪れ、復古神道に傾倒した。容盛が井上頼圀に語ったところでは、与清は容盛の与清訪問を聞いた時、「君は春秋に富むから私の発言を後に証明できるだろう。篤胤の名は一人大いに掲がり、更に10年後は天下に囂しく、30年後は神として祀られるだろう。しかし、私は悲しいことにその頃には忘れ果てられるだろう。私が一生を込めた『群書捜索目録』は彼の刻下編述中の『古史徴・開題記』に比べるべくもない。私の編著は決して彼に知らせないでくれ。」と語ったという。 安政2年(1855年)1月11日水戸藩主徳川斉昭から彰考館和学局西野新治を通じてキリスト教等について神道家としての意見を求められ、同月と2月の2回に渡って建言書を提出した。鶴峯戊申から国際情勢について的確な対外認識を得ており、幕府の開国政策、西洋兵学の採用に理解を示す一方、外交文書に漢文を用いないこと、参内する外国使節の参内には位階・位袍を与え、住吉神社・大洗磯前神社に奉祀すること、弓・矢・槍は霊器なので廃さないこと、軍艦は上代の赭船に倣い朱塗りすることなど、形式面に拘った迂遠な主張を行っている。尊皇・敬神の大道興隆、国体護持を目的視、神祇官・山陵の復活、一世一元の制の採用等を主張し、父と同様キリスト教をさほど脅威視しない一方、仏教を激しく口撃し、法親王制の廃止等による神仏分離を主張する。 元治元年(1864年)「年中行事」「御神事式」「祝詞式」「御饌調進式」を著し、武蔵国府総社神事への社僧の参加を停止した。慶応4年(1868年)3月29日府中宿に宿泊中の東海道先鋒副総督柳原前光に対し、自社の仏堂・仏像・社僧の排除について伺いを立て、7月社寺裁判所の承認の下、本地堂・護摩堂・鉄仏堂を取り壊し、社僧を還俗させて社人とした。8月17日には神領での仏葬祭禁止を申請したが、これは却下された。
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