徳間時代
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1974年(昭和49年) 労働組合は徳間康快社長率いる徳間書店と経営再建で合意、破産した大映株式会社に代わり、9月に新たな法人として、資本金2億円で大映映画株式会社を設立し、徳間書店傘下の映画製作子会社となる。この時点で制作映画の配給は他社制作映画の配給が本業で、かつての同業他社であった東宝を中心に、東映や松竹といったところにも委託するようになった。大映映画株式会社は後に大映株式会社に社名を変更した。 1977年(昭和52年) 大映映画は撮影所や配給部門を別会社に切り離して、大映映画撮影所、大映映画京都撮影所、大映配給、大映映像の4子会社に分割された。大映京都撮影所は大映映画撮影所(貸しスタジオ)となるなど、土地資産の売却や人材の合理化で負債を減らしていった。徳間書店の出版する小説を原作とした『君よ憤怒の河を渉れ』(永田雅一が映画界に復帰した最初の作品でもある)や『黄金の犬』などの製作が始まる。 1982年(昭和57年) 国交10周年を記念した日中合作映画『未完の対局』が公開され、「永田大作路線」に続く「徳間超大作路線」が始まる。以後大映は、徳間書店東光徳間事業本部(東光徳間)と共同で中国映画・韓国映画の買い付け・配給なども手掛けた。 1986年(昭和61年) 京都・太秦の大映映画撮影所を完全閉鎖し、跡地を売却する。 1987年(昭和62年) SF大作『首都消失』を公開する。 1988年(昭和63年) 当時「史上最大の45億円」を投じた日中合作の超大作映画『敦煌』を公開する。 1992年(平成4年) 25億円を投じてロシアで撮影した『おろしや国酔夢譚』を公開する。 これら「超大作路線」による借入金の増大とバブル崩壊などにより、大映のみならず徳間書店グループ自体の累積赤字が膨らんだ。その後も平成『ガメラ』シリーズや『Shall we ダンス?』など佳作にも積極的に出資してヒットにつなげたものの、徳間書店は住友銀行の管理下におかれることとなり、大映売却が取り沙汰され始めた。 2000年(平成12年) 徳間康快が死去。 2002年(平成14年)7月 徳間書店は同業の角川書店に大映が保有する全映画とその配給権およびビデオ制作権、調布市の大映スタジオ(多摩川撮影所)の運営など、全事業を売却することで合意する。 11月、角川の映像子会社「株式会社角川大映映画」が設立され、大映は営業権と従業員のすべてをこれに移譲し、ここに大映は60年の歴史に事実上幕を下ろした。法人自体は2003年1月に解散、2007年4月に清算結了し、名実共に消滅している。
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