復活論と裁判員制度
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終戦後、占領軍は日本における陪審制の復活を強くは主張せず、1947年(昭和22年)4月16日公布の裁判所法(同年5月3日施行)では、別に法律で刑事事件の陪審制を設けることを妨げないと規定されるにとどまった(同法3条3項)。 1999年(平成11年)7月に設置された司法制度改革審議会で国民の司法参加が取り上げられることとなり、陪審制に関する議論が急浮上したが、同審議会の最終意見書で、職業裁判官と市民が共に評議・評決を行う、参審制に近い裁判員制度の採用が決まった。
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復活論と裁判員制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 23:38 UTC 版)
終戦後、占領軍は、当初、日本の民主化政策として陪審制は不可欠と考えており、政府の憲法第2次試案までは、「陪審審理は、死刑を科し得る罪について起訴された者にはすべてに、重罪について起訴された者にはその者の請求により、与えられる。」との規定があった。しかし日本政府は陪審制の明文化には消極的であり、兼子一の違憲論もあり、1947年(昭和22年)4月16日公布の裁判所法(同年5月3日施行)では、別に法律で刑事事件の陪審制を設けることを妨げないと規定されるにとどまった(同法3条3項)。GHQが陪審制の復活を強く主張しなかったことに関しては、立法・司法課長であったドイツ人のオップラーAlfred C.Oppler(日本語訳は、または、オプラー)が陪審制について懐疑的であったことも指摘されている。 その後、一部で陪審制の復活や参審制の導入を主張する声があったが、1979年から1989年にかけて、免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件で再審無罪判決が出た(4大死刑冤罪事件)ことをきっかけに、刑事裁判制度に対する批判が高まり、弁護士・法学者を中心に陪審・参審制導入論も盛り上がった。ちょうど同じ時期、1988年に、最高裁判所長官矢口洪一が最高裁の刑事局に対し陪審制の導入の可否を検討するよう指示した。しかし、冤罪事件への世間の関心が薄れるとともに、導入論も下火となった。 ところが、1999年(平成11年)7月に設置された司法制度改革審議会で国民の司法参加が取り上げられることとなり、その中で陪審制とするか(日本弁護士連合会等)と、参審制とするか(最高裁サイド)で激しい対立が生じたが、最終的に、職業裁判官と市民が共に評議・評決を行う、参審制に近い制度の採用が決まった。そして、同審議会は、2001年(平成13年)6月の最終意見書の中で、裁判員制度の導入を提言した。これを受けて、2004年(平成16年)5月に国会で裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(裁判員法)が制定され、2009年(平成21年)5月21日より施行されている。陪審法自体は停止されたまま現在も形式的に残っているが、日本における国民の司法参加は陪審制とはやや異なる形で拡大(検察審査会が既に存在するため「実現」ではなく、あくまで「拡大」である)することとなった。
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