後退から撤収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
1913年に入ると日本瓦斯では傘下会社の合同を試みるようになり、まず新潟瓦斯と千葉県千葉市にある千葉瓦斯の統合を決定、6月2日付で両社合併による合同瓦斯(資本金85万円、現・北陸ガス)を東京に設立した。次いで九州地方での合同へ移り、九州と山口県のガス会社10社を統合して8月17日付で福岡市に西部合同瓦斯(資本金500万円、西部ガスの母体)を設立した。合同瓦斯・西部合同瓦斯ともに桃介が初代社長を務める。ただし西部合同瓦斯の社長は翌1914年(大正3年)12月25日付で辞任し松永安左エ門と交代している。 1914年に勃発した第一次世界大戦の影響で日本は大戦景気に沸いたが、ガス業界では好況による販売増にもかかわらず原料石炭(当時の都市ガスは石炭ガス)や鉄材の価格高騰の影響が直撃、さらに自治体当局との関係から料金値上げが容易でないという事業構造が災いして業界全体が不振に陥った。西部合同瓦斯では経営難から1915年に山口県内の事業を手放し、1918年には大牟田・鹿児島両地区の事業を売却して、最終的に資本金を350万円へと縮小。東京の合同瓦斯でも1917年に千葉地区の事業を手放して資本金を50万円に圧縮し、社名も新潟瓦斯へと戻している。日本瓦斯直営であった高松地区のガス事業についても再編され1916年に桃介が社長を兼ねる電力会社四国水力電気へと移された。 1916年12月、和歌山瓦斯の経営を地元実業家に引き渡し同社から撤退する。今治瓦斯でも地元重役陣に株式を引き取らせて撤収した。日本瓦斯は、1925年(大正14年)初頭の段階では桃介が社長のままで、なおも新潟瓦斯・西部合同瓦斯の大株主であったが、同年10月9日付で解散した。日本瓦斯解散に際し新潟瓦斯については9月に長岡の小林友太郎が株式を引き取っており、10月に小林が桃介の後任社長に就いている。 日本瓦斯でも役員を務めた松永安左エ門によると、桃介は日本瓦斯を起して一時は日本各地のみならず満洲の安東県でも事業を出願するほどガス事業に積極的であったが、名古屋電灯や木曽川開発に関係すると、やがてガス事業には一切関心を寄せなくなったという。
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