役者の兼業陰間
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歌舞伎は当初は女性が舞台に立つ「女歌舞伎」として発達した。しかしそうした女役者たちは売春を兼ねていたため、江戸町奉行所はこれを風紀を乱すものとして寛永6年(1629年)にいっさいの女性が舞台に立つことを禁止した。するとこんどは女歌舞伎と並行して人気を博していた、元服前の少年による「若衆歌舞伎」が盛んになった。しかし彼らもまた売色を兼ねており、しかも男客を中心に、女客の相手もした。そこで町奉行所は慶安5年(1652年)に若衆歌舞伎も禁止した。 ところがこれで江戸の芝居街は火が消えたように閑散としたものになったため、江戸っ子は繰り返し町奉行所に若衆歌舞伎の再開を嘆願した。そこで奉行所は、役者は前髪を落として月代を剃った「野郎頭」にすること、演目は世相を題材とした演劇を中心として音楽や踊りを控える「物真似狂言尽」とすることの2点を条件として、若衆が舞台に立つことを改めて許可した。以後の歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼ぶ。 しかしその後も役者による売色業は廃れることがなく、女性役をつとめる役者・女形はかえってより実際の女性に近い存在になっていった。そして女形にとって、男性に抱かれることは必須の役者修業のひとつと考えられるようになっていった。こうして修行中の女形は結局陰間を兼ねることになり、陰子(かげご)・色子(いろご)などと呼ばれた。舞台に立つようになっても舞台子(ぶたいご)と呼ばれ、芝居の幕が引かれた後の贔屓客の酒の席に招かれて、その色香が衰えるまで盛んに色を売った。 「恋といふ其源を尋ねれば ばりくそ穴の二つなるべし」という弘法大師(空海)に仮託して詠まれた一首や「ちょっちょっと陰間を買って偏らず」という川柳も存在する。また、渡辺信一郎『江戸の色道: 古川柳から覗く男色の世界』には、陰間の売色の現実や、すさまじいまでの性技の数々、10歳になるかならぬ子どもの身体を、男色に耐えるように特殊な器具で慣らし鍛える行為や、糞便の匂いで馴染みの陰間を思い出し欲情するという小咄などが紹介されている。
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