影響とエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:29 UTC 版)
「ジミ・ヘンドリックス」の記事における「影響とエピソード」の解説
数々のヒット曲を持つヘンドリックスのビルボード最高位は、アルバムチャート(Billboard 200)で1位、シングルチャート(Billboard Hot 100)20位である。難解な音楽でファンが少なかったなどということはなく、むしろ当時のアメリカのロックミュージシャンの中で最も集客力のあるスターだった。ウッドストックのトリを務めたのも、そのためだと言われる。ただし、本来ヘンドリックスの出演は最終日(日曜日)の夜の予定だったのに、スケジュールが押して翌日(月曜日)の朝になってしまい、40万人とも言われた観客の大半は帰途についていた。日本人でウッドストックを観た数少ない一人であるギタリスト成毛滋も、ヘンドリックスのステージを観ずに会場を離れている。 ヘンドリックスは、様々なジャンルのミュージシャンとセッションすることを好んだが、1960年代半ばのイギリスでは、そういった習慣(文化)があまり普及しておらず、イギリスでセッションの習慣を定着させたのはヘンドリックスである、という説も存在する(ピート・タウンゼントの談話)。 ヘンドリックスの代表曲である「パープル・ヘイズ(邦題:紫のけむり)」で使用されているE7(#9)というコードは、元々はブルースやジャズなどにおいて使用されていたものだが、ヘンドリックスの同曲の演奏によって「サイケデリックな響きのするコード」として有名になった。ミュージシャンなどの間では「ヘンドリックス・コード」(日本では「ジミヘンコード」)などと呼ばれることもある。 モンタレー・ポップフェスティバルで成功を収めた直後、一時期モンキーズの全米ツアーのオープニングアクト(前座)を務めたことがある。しかしモンキーズとの客層の違いなどからステージでまったく受けず、ごく短期間で降板している。 モンタレーの記録映像で有名なギター燃やしだが、それが初めてではなく、イギリスで既に何度も行っていた。ヘンドリックスが初めてギターに火を放ったのは、ウォーカーブラザーズのツアーに前座として同行した際(1967年3月)。ギター燃やしを発案したのはヘンドリックス本人ではなく、知人の記者だったと言われている。 「アメリカ国歌」のライブ演奏もウッドストックが初めてではない。「アメリカ国歌」には、多重録音を駆使したスタジオ録音バージョンも存在している。 ヘンドリックスに大きな影響を受け、ヘンドリックスそっくりの演奏をする「ヘンドリックス・フォロワー」と呼ばれるギタリストが存在する。ロビン・トロワー、ロイ・ブキャナン、フランク・マリノ、ウリ・ジョン・ロートなどが、ヘンドリックス・フォロワーの代表例と言われる。 27歳で亡くなっているため、いわゆる「27クラブ」(27歳で死去した有名ミュージシャン達を指す)の代表的な一人とされることが多い。 ヘンドリックスの映画は何度か制作されている。1973年に公開された「Jimi Hendrix」(ワーナーブラザーズ)は、ヘンドリックスのライブ演奏や関係者のインタビューなど、ドキュメンタリー的内容である。2000年に公開された「HENDRIX」(邦題は「炎のギタリストジミ・ヘンドリックス」、レオン・イチャソ監督)は、登場人物を俳優が演じる伝記映画で、日本では一般公開されず、ビデオ(DVD)ソフトが販売された。2013年に公開された「Jimi:All Is by My Side」(ジョン・リドリー監督)は、アウトキャストのアンドレ・3000がヘンドリックスを演じた伝記映画で、日本では「JIMI:栄光への軌跡」と題され2015年に一般公開された。「炎のギタリストジミ・ヘンドリックス」や「Jimi:栄光への軌跡」では、ヘンドリックスの楽曲の使用許可が下りず、劇中では「ヘイ・ジョー」などカバー曲しか使われない結果になっている。 ヘンドリックスが、ニューヨークのチェルシー・ホテルに宿泊していた際、別の客である老婆からボーイと間違われ、荷物を運んであげたことがあるという。
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