彫刻/記念碑
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「レーダ=ヴィーデンブリュック」の記事における「彫刻/記念碑」の解説
ヴィーデンブリュックのマルクト広場にある泉の像「祈る農夫」は祈る人物を象っている。台座は、2つの水盤の間にあり、「Betender Landmann」(「祈る農夫」)と刻み込まれている。この像は、ヴィーデンブリュックの名誉市民(1901年)で、1882年から1892年までヴィーデンブリュック郡の郡長、1898年から1902年までシュレースヴィヒの上級参事官、1902年からはプロイセンのベルリン文化大臣を歴任したエルンスト・オスターラートによって寄進された。彼はヴィーデンブリュック出身の彫刻家ベルンハルト・ハイジングと出会い、その作品に強く興味を持ち、ミュンスターの農民指導者ショルレマー=アルストの立像(1902年)を称賛した。ハイジングは労働運動に対する関与で知られていた。彼は、故郷のヴィーデンブリュックに親しみと感謝の徴としてこの立像と同じような大きな記念碑を建てたいと考え、「祈る労働者」というアイデアを思いついた。ハイジングはその作品に、程良い労働、土地、宗教的環境を与えられた農夫が休日に自分の庭で祈りの時鐘を聴き、とても親愛な神に思いをいたすというプログラムを与えた。しかし地元ではすぐに「労働者」ではなく「農夫」と呼ばれるようになった。 この像は、マルクト広場の泉とともに1903年11月1日に公式に完成した。多くのギルドが形成された手工業都市としての歴史や住民の深い信仰心はこの芸術作品に表現されている。 この泉の像は歴史の曲折を経験した。第一次世界大戦中、この像は軍装備を得るために撤去され、鋳つぶされることになっていた。しかしこの像はその運命を免れ、ベルリンの鋳造所でヴィーデンベックの商人フェリックス・プレーガーに偶然発見されて無傷でヴィーデンブリュックに運ばれた。 第二次世界大戦中、この像は再び撤去され、実際に鋳つぶされてしまった。予め作られていた石膏の型がこの人気の像の再建立に役立った。ブロンズ像を鋳造するために原型の大きな石膏像がハイジング家の子孫によってバート・ドリーブルクに何年も前から運ばれていたことは、ヴィーデンブリュックでは1950年まで知られていなかった。彫刻家ベルント・ハルトマンは石膏型に基づいて新たに鋳造を行い、1951年12月、元々あった場所で除幕式が行われた。 歴史的な原型に基づいて再建された3つの水車の輪はミューレンヴァルとレクトラーツ通りとの角にあった脱穀水車「ノイエ・ミューレ」を記念したものである。この水車は1250年から1969年まで存在していた。3つの水車の輪を組み合わせるのは極めて珍しい。 水車の輪の直径はそれぞれ約 5 m である。合計約 2500の歯車がこの構造物のために稼働していた。この水車はエムス川から人為的に掘削された支流ウムフルート川によって稼働していた。エムス川とウムフルート川はヴィーデンブリュックの歴史的な中核市区を囲んで流れており、かつては都市防衛施設の一部をなしていた。この記念碑は2007年6月8日に完成し、フランツ=ヨーゼフ・クラーネからこの都市に寄贈された。市はミュール広場の再開発に 5万ユーロを費やした。2008年9月5日、公園に石臼が設置された。これは1888年に焼失した蒸留所「アウフ・デム・シルデ」で用いられていたものである。 レクトラーツ通りには兵士記念碑があり、聖エギディウス教会前には戦争と暴力に対する警告碑がある。
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