引退セレモニー、その後
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「大木金太郎」の記事における「引退セレモニー、その後」の解説
1995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われた。 車椅子姿で花道を入場してきたが、リング・インの際は気丈に立ち上がり、ルー・テーズと共にリング内に進むと四方へ頭を下げ、ファンの声援を受けると現役時代からであるが流暢な日本語で「(感激で)胸がいっぱいで声が出ません」と涙を流した。ファンへの感謝とお詫びの言葉、力道山との思い出などを語り、引退のテン・カウントを聞くと眼を閉じて号泣した。リングを降りる間際ニュートラル・コーナーへ歩み寄ると、鉄柱に頭を付け愛おしそうに撫で、リングをあとにした。 自宅が火災に遭い全焼してしまい、持っていた過去のビデオや資料がすべて焼失してしまった。その後、日本のプロレスファンから、自身の試合を収録したビデオを贈られた際には感激したそうである。 2005年9月の「月刊朝鮮」によると、ソウル市内の病院に入院中で、頭突きの後遺症による脳血管疾患と高血圧・心不全・下肢浮腫を患っている状態であったという。体重は78kgほどまで落ち、10年前に再婚した夫人が看病に当たっていると韓国国内に報じられた。 2006年9月9日、韓国ソウルのソウル蚕室総合体育館で開かれた「世界プロレスリング協会(WWA)2006ソウル大会」に、数少なき後輩たちのファイトを見守るために姿を現した。車椅子に乗った大木ことキム・イルが現われると、2000人あまりの観衆たちは熱い拍手を送り、彼の名前を連呼した。痛風にもかかって体の調子が相変わらずよくはないが、「今大会のような世界的大会が今後も開催されるように、韓国プロレスの発展のお手助けになりたい。多くの方々が心配してくれたお陰で健康状態がよくなった。熱心に後輩たちを後援するつもりだ。今後もファンがプロレスに多くの声援を送ってくだされば良いと思う」とのメッセージを残した。 最晩年にテレビ番組の企画でアントニオ猪木が闘病中の大木の自宅を訪問している。大木と猪木は再会を大いに喜び、若き日の思い出話を語り合った。若手時代の猪木は力道山に徹底的にしごかれ、時には付き人として理不尽な仕打ちを受けていたが、最も親身に相談に乗ってくれたのは大木だったという。なお、猪木のデビュー戦の相手は大木が務めている。プロレス界においてタブーともいえる「トップレスラーの得意技を使用してはいけない」という暗黙の了解を大木が破り、卍固めを使用した際も猪木は「大木さんの技は首を極めておらず、僕の卍固めとは別物でしょう」として咎めることは無かった。 2006年10月26日、ソウル特別市蘆原区の乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。77歳没。 大木が没して14年後となる2020年、大韓民国国家報勲処は大木(金一)が韓国スポーツ界発展に尽くした功績を評価し、国家顕彰者として大田市の国立大田顕忠院(朝鮮語版)国家社会貢献者墓域(国立墓地)に大木を改葬することを決定し、5月22日に大木の遺骨が納骨された。
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