夢の懸け橋
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1995年4月2日、ベースボール・マガジン社主催のオールスター戦『夢の懸け橋』が東京ドームで行われた。 メジャー・インディー・UWF系・女子プロレスから全13団体が参加した。ただし、「各団体の純潔メンバーでのカードを提供する」といったコンセプトのもと、各団体間の交流戦は一切行われなかった。全13団体の選手が一堂に会す豪華さと、当時他団体と交流を断っていた全日本プロレスが他団体と同じ興行に参加するといったプレミア性が重なり、会場には6万人の観衆が詰めかけた。試合の他には大木金太郎の引退セレモニーも行われた(なお、公に出ている記録の類は週刊プロレスによる増刊号のみである。試合結果はこちらを参照。No.135 SWS取材拒否以来のパラレル・ワールドが現出。)。 だが、ベースボール・マガジン社を除くと本興行を記事として報じたのは週刊ファイトのみであった。主催者であるBBM社が全ての発表を週刊プロレスのスクープ記事という形でのみ行い、「他紙誌を排除した私的な大会」との印象を他マスコミに与えたことが興行の黙殺に繋がったといわれている。この件について、当時のゴングの編集者は「一マスコミの興行の私物化以外に、それに伴う脅迫(出場しないと紙面での扱いを制限される等)のような概念が各団体にあったため、その独裁的な影響力などにも警鐘を鳴らすため」という意の懐述をしている。また、週刊プレイボーイからは「『戦後50年を問う』というコンセプトなのに馬場も猪木もいない。こんな大会をやった意味は何なのか」という意見も出た。 なお、WARは以前から同日同時刻に東京ドームと隣接する後楽園ホールでの興行を行うことが決定していたため、「夢の懸け橋」への参加要請を拒否。自らの興行を決行し、こちらも超満員の観客を集めた。週刊ゴングは「反『夢の懸け橋』」を謳って同大会をバックアップ(主催、共催としなかったのは、夢の懸け橋に対して「マスコミが興行をすること自体が問題である」と当初から公言していたため)。反ターザン山本の急先鋒(もしくはゴング寄り)とされた長州力の出場も相まって、さながら反週プロ大会の様相を呈していたという。週刊ゴングは、この大会に参加した長州の反山本的な発言を巻頭で掲載。長州はその中で「俺は(プロレスマスコミは)東スポ一本でいいと思っている」と語っている。 このように、『夢の懸け橋』の成功は反動として週刊プロレスへの大きな反発を生んだ。新日本プロレスを始めとする複数の団体が、週刊プロレスを取材拒否を通告したり、山本が編集長を退任(前述)したのはその翌年のことである。 2010年になって山本は『夢の懸け橋』について「僕ではなくむしろ、当時の週プロの勢いに目をつけた、ベースボール・マガジン社の事業部の主導だった」などと主張し、自分はあくまでも被害者であると言い張っている。 『夢の懸け橋』から14年が経過した2009年12月31日、山本のプロデュースによる『夢の懸け橋2009〜大晦日プロレス祭り〜』が開催された。 参加した団体 新日本プロレス 全日本プロレス FMW みちのくプロレス IWA・JAPAN UWFインターナショナル リングス 藤原組 パンクラス 全日本女子プロレス JWP女子プロレス LLPW 剛軍団
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