式の再発見と論争と普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:31 UTC 版)
「ロジスティック方程式」の記事における「式の再発見と論争と普及」の解説
フェルフルスト発表の後、生物の個体群成長に関する実験などで、同じ式が独自にあちこちで使われ始めたが、フェルフルストの名が挙がることはなかった。1908年には生理学者のブレイルスフォード・ロバートソン(英語版)が、動物、植物、人間といった生物の個体成長を同形式の曲線で記述した。ロバートソンはフェルフルストの発表を知らなかったが、同じ曲線を用い、さらに偶然にもケトレーのデータを使用している。この時点で同じ曲線が化学物質における自己触媒反応の過程を表すのに使われていたので、ロバートソンは曲線のことを自己触媒的曲線(autocatalytic curve)と呼んでいた。 1920年、ジョンズ・ホプキンス大学のレイモンド・パールとローウェル・リード(英語版)が、ロジスティック方程式と同形式のモデルを用いてアメリカ合衆国の人口増加について論じた。この研究も、フェルフルストにより先に発表されていたことを知らずに行われた。翌年の1921年には、これがすでに80年近く前にフェルフルストによって発見されたことをパールらも認めた。これによってパールらもロジスティック曲線という名称を使うようになり、やっとフェルフルストの名がこの式に結びつくことになる。これ以降、生物学ではロジスティック曲線という名称が定着した。 パールはショウジョウバエの個体群成長の実験を行い、この式を実証した。1924年と1925年にも、アメリカ、スウェーデン、フランスなどの様々な国勢調査の人口統計にロジスティック曲線のあてはめを行い、よく一致することを示した。このような積み重ねた証拠をもとに、パールは個体群全般がロジステック曲線に沿って成長することを強く確信し、ロジステック曲線が「法則」であると主張した。当時、パールとリードはこの式の価値を「控え目にいっても、それはケプラーの惑星の楕円運動法則に匹敵するものであるといってもよいように思われる」と自身らで評価している。ロジスティック曲線は、経験的なものというよりも、個体群成長全般において普遍性を持つ法則であり、成長の長期的傾向の予測も可能にするとパールは考えていた。パールは、この式が個体群成長における普遍則であるという持論を広め、ロジスティック方程式の普及に大きく貢献することになる。このため、ロジスティック曲線にはパールの名が題されることもある。 一方で、パールの自説の展開には多くの批判も呼び、1940年にパールが死去するまで論争が続いた。経済学者のA. B. ウルフ、人口学者のジョージ・ハンドリー・ニブス(英語版)、統計学者のエドウィン・ウィルソン(英語版)などがパールの主張に批判を加えている。動物学者のジェームズ・グレイ(英語版)、ランスロット・ホグベン、遺伝学者のシューアル・ライトからは、他のS字型曲線を使っても個体群成長のデータに当てはめができるので、ロジスティック曲線を使う必然性が欠けていることについて指摘を受けている。 ロジスティック曲線の有効性を支持し、その普及を担った人たちもいる。イギリスの統計学者ウドニー・ユール(英語版)は、パールの理論を1924年のイギリスの学会で発表している。ユールはロジスティック曲線は長期予測には適用できないと考えており、その点を強調したが、基本的にはパールの研究を支持していた。アルフレッド・ロトカ(英語版)も、ロジスティック曲線の有効性を理解し、ロジスティック方程式について1925年の自書の中で一章を与えて説明した。ただしロトカは、ロジスティック方程式は実現象の近似の一種であるという考えを保っていた。ロシアのゲオルギー・ガウゼ(英語版)も、近似の一種と受け止めながらも、ロジスティック方程式が同種の集団の中での生存競争を定量的に表すことができると述べている。1934年、ガウゼは微生物の実験によってロジスティック方程式の検証を行い、この検証はロジスティックモデルを個体群動態論における古典的理論の一つとして確固たるものとした。モデルの限界には注意が払われながらもロジスティック方程式の受容は広まっていき、1940年代後半には個体群解析における一般的な道具として確立した。
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