庶民院議員・閣僚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 05:18 UTC 版)
「ロイ・ジェンキンス」の記事における「庶民院議員・閣僚」の解説
1945年の総選挙ではウェスト・ミッドランズ州のソリハル選挙区から立候補して落選したが、1948年のグレーター・ロンドンのサザク・セントラル選挙区での庶民院議員補欠選挙で当選し、当時の庶民院議員としては最年少議員 (Baby of the House) となった。その後サザク・セントラル選挙区は1950年の総選挙のさいに選挙区画の変更で廃止され、新設されたバーミンガム・ステッチフォード選挙区から立候補し、1977年までその議席を確保した。 ジェンキンスは1959年に猥褻物出版規制を緩和する法律の主要な提案者となり、この法律では刑事訴追を受けるか、あるいは保護されるべき文学上の表現であるかという根拠として「秩序を乱し破壊したと認められる」という基準を定めている。ヒーリーやクロスランドと同じく、当時労働党党首のヒュー・ゲイツケルとも親しく、また共同提案者にとってゲイツケルの死やその後を受けてハロルド・ウィルソンが党首となったことは追い風になった。 1964年の総選挙で発足したウィルソン政権において航空担当国務大臣を務めた後、1965年12月22日から1967年11月まで内務大臣を務め、45歳の閣内相は最年少であった。内務大臣在任中にジェンキンスは労働党政権が1960年代に推し進めた各分野での大幅な改革を担当しており、たとえば離婚に関する法令の緩和や劇場での検閲の廃止、デイヴィッド・スティールの妊娠中絶の合法化に関する議員立法やレオ・アブジの同性愛差別に関する議員立法について政府として支持した。ウィルソンはピューリタンであるということからこれらの法案について余り前向きではなかったため、ジェンキンスが世論の批判に対処し、この中でいわゆる寛容社会こそが現実において文明化された社会であると主張した。 1967年11月にポンド切り下げを実施したジェームズ・キャラハンの後任として1967年から1970年まで財務大臣を務め、増税や歳出削減には躊躇したものの、就任直後には屈強な財務大臣との評価を受けた。ところが1970年の総選挙では、投票の数日前に発表された月間の貿易統計指数の悪化とジェンキンスの投票日直前の財務的に中立型の予算に関する発言の結果、労働党は敗北を喫した。 ジェンキンスは1970年7月に労働党の副党首に選出されるが、1972年にイギリスの欧州諸共同体加盟の是非を問う国民投票に党が支持に回ったことを受けて辞任した。ジェンキンスの党内での立場は、前年にヒース保守党政権のイギリスの欧州諸共同体加盟に関する動きに関して自らのほかに69人の労働党議員を賛成にまわしたことで批判に晒されていたのである。これによりかつて支持者であったロイ・ハタズリーがジェンキンスから距離を置くようになった。ジェンキンスの派手な生き方、かつてウィルソンはジェンキンスについて「社会党員にしては社交的」と評しているが、このために労働党とジェンキンスの間に溝ができてしまったといえる。 労働党が政権を奪回するとジェンキンスは1974年から1976年にかけて再び内務大臣に任命された。この間、ジェンキンスは議論となっていた北アイルランドのテロ防止法を推進し、その中で被疑者の身柄拘束期間の延長や入国拒否命令の権限を定めるなどして、かつての自身の自由主義的な姿勢を弱めた。
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