庶民院議員就任から叙爵まで
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「ジョン・ペニントン (初代マンカスター男爵)」の記事における「庶民院議員就任から叙爵まで」の解説
1781年12月、ノース内閣の支持を得てミルボーン・ポート選挙区(英語版)の補欠選挙に出馬、当選を果たした。この議席を得るために3,000ポンドを支払ったという。当選直後の1781年12月にはアメリカ独立戦争の継続に反対する動議で内閣に同調して、反対票を投じた。しかし、ノース内閣が崩壊する理由となった採決では1782年2月20日、22日に投票せず、27日以降は野党に同調して投票した。 ノース内閣の崩壊にともない第2次ロッキンガム侯爵内閣が成立すると、第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイがペニントンへの官職任命を申請して、首相の第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースと内務大臣の第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティに頻繁に手紙を書いた。ペニントンは商業関連の官職を望み、グラフトン公爵は下級商務卿(Lord of Trade)が適切だと考えたが、商務庁は同年に廃止され、以降も適切な官職が見つからなかった。 いつまでも官職にありつけなかったという状況に、ペニントンは自身がアイルランドで広大な領地を取得する予定であると述べ、アイルランド貴族への叙爵を提案した。ロッキンガム侯爵は賛成したが、直後の7月1日に死去した。次の内閣であるシェルバーン伯爵内閣ではグラフトン公爵の官職任命申請が悉く拒否されたが、ペニントンは1783年2月にアメリカ独立戦争の予備講和条約に賛成票を投じた。 そして、1783年にフォックス=ノース連立内閣が成立すると、外務大臣のチャールズ・ジェームズ・フォックスはペニントンの叙爵に同意、ペニントンは1783年10月21日にアイルランド貴族におけるマンカスター男爵に叙された。この爵位には特別残余権(special remainder)が定められており、初代男爵の男系子孫が断絶した場合、その弟ラウザー・ペニントン(英語版)およびその男系子孫が継承するとされた。しかし、ペニントン自身は小ピット派であり、1783年11月にフォックスの東インド法案に反対票を投じた。同年には議会改革に賛成票を投じた。
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