庶民院議員選挙への挑戦
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「庶民院議員選挙への挑戦」の解説
パーマストン卿は父と同様に政治家を志した。 イングランド貴族やグレートブリテン貴族、連合王国貴族の場合、21歳以上の当主は自動的に連合王国貴族院議員に選出されるが、アイルランド貴族は1801年以前グレートブリテン王国とアイルランド王国が分離しており、別個に議会をもっていった沿革から貴族代表議員に選出されない限り連合王国貴族院議員になることはなかった。そのためパーマストン卿も21歳を過ぎても自動的に貴族院議員になることはなかった。 彼は庶民院議員を目指すことにし、いまだケンブリッジ大学在学中の1806年2月にウィリアム・ピットの死去に伴って行われたケンブリッジ大学選挙区(英語版)補欠選挙にトーリー党候補として立候補したが、この選挙区は他に元首相シェルバーン伯爵の次男ヘンリー・ペティ卿と海軍卿・内務大臣を歴任したスペンサー伯爵の長男オールトラップ子爵という有力候補二人がホイッグ党候補として立候補していたため、結局パーマストン卿は三人のうち最下位の得票しか得られずに落選した。 同年10月の解散総選挙(英語版)では、マームズベリー伯爵の推薦でホーシャム選挙区(英語版)から出馬したが、選挙に不正があったとされて当選を認められなかった。 当時は小ピットとフォックスの相次ぐ死で議会政治が混乱していた時期であったため、翌1807年4月にも解散総選挙(英語版)があった。パーマストン卿はこの総選挙に初めケンブリッジ大学選挙区から立候補したが、落選したため、ワイト島のニューポート選挙区(英語版)に鞍替えし、そちらで当選を果たした。 四度目の挑戦にしてパーマストン卿は庶民院の議席を手に入れた。
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