庶流か否か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:01 UTC 版)
「源義清 (矢田判官代)」の記事における「庶流か否か」の解説
義清の戦死により、その子らは源頼朝の信任が篤い異母弟の義兼の家来同様の地位に下がって発展できなかったが、義兼が三河守護に補任されて以後、義清の子孫も三河に進出し、仁木氏・細川氏などが出て南北朝時代に大きく飛躍した。 ただ、義清を庶流と見るのは誤りと思われる。祖父源義国以来の根本所領である下野国簗田御厨を管理し所領としていたことや、討死後に異母弟義兼の配慮で母が所領を与えられて老後を過ごしており庶流の生母にしては厚く遇されていることなどから、元々は家督継承者であったのが木曾義仲に与して戦死したため、頼朝に近い間柄の義兼がその命で相続したものと思われる。 また、上野国八幡荘矢田郷の所領は新田義重との猶子関係・婚姻関係によって獲得したもので元々足利氏の所領ではなかったと言われており、矢田判官代の通称は誤りで、根本所領の簗田御厨に基づき「簗田判官代」とするのが正しいと思われる。 さらに、足利氏の根本所領とされる足利荘(簗田御厨に隣接)も源義家─源為義─源義朝─源頼朝と河内源氏惣領の所領として伝わったもので、その重代の家人で藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏が下司職として知行していたものだったが、これが治承・寿永の乱(源平の戦い)で没落した後に源姓足利氏(義兼)が初めて地頭職を獲得したといい、源義康─源義清の時期の本領はまだ簗田御厨であったが、義清が木曾義仲に与して戦死したために子孫に伝わらず、頼朝近親の義兼が新たに足利荘を獲得すると共に簗田御厨も継承したとする研究もある。 ただし、義清の室の兄弟であり娘婿でもある山名義範の名字の地とされる上野国多胡郡(八幡荘)山名郷の隣に矢田郷が存在すること、足利荘や簗田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘・簗田御厨を離れて矢田郷に拠点を移し、その地域的繋がりから新田・山名氏との縁戚関係や東信濃の滋野氏及び彼らが擁する木曾義仲との軍事的連携が成立したとする説もある。
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