庶民院議長就任までの政歴
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「チャールズ・ウルフラン・コーンウォール」の記事における「庶民院議長就任までの政歴」の解説
コーンウォールの政界入りは親族のチャールズ・ジェンキンソン(英語版)(コーンウォールの母方の祖母の妹の息子)の助力があってのことであり、1764年8月17日にコーンウォールがジェンキンソンの妹エリザベスと結婚したことで2人の協力関係が強化された。1763年、コーンウォールはジェンキンソンに「最初の目的は議会での議席であり、それがなくては公的機関と関わらない」と手紙で述べたが、後に説得されてドイツとの貿易収支の調査委員に就任した。コーンウォールは1763年から1765年まで委員を務め、財政の手続きに関する知識を習得した。 調査委員を離任した後、コーンウォールは政界におけるジェンキンソンとの関係を薄め、ロッキンガム侯爵やシェルバーン伯爵の党派に移った。シェルバーン伯爵は1768年イギリス総選挙でコーンウォールにグラムパウンド選挙区(英語版)の議席を用意した。議員に就任したコーンウォールは野党の一員としてたびたび政府に反対する演説をし、特に東インド政策に特化した。1773年、ノース卿からベンガルでイギリス東インド会社の活動を監督する官職への就任を打診されたがそれを辞退した。 アメリカ独立革命の勃発にあたり、多くの野党議員は政府の対応を批判したが、コーンウォールは1774年4月19日に議会で「アメリカが必ずするように言われてそれをするか、アメリカが必ずしないように言われてそれをやめると、私たちは母国の名に泥を塗ってしまう」(We ill hold the title of mother country if we are to do what America says we must do, or desist from doing what America says we must not do.)と演説して政府の対応を支持した。野党との意見の相違、さらに500ポンドの年金(2018年時点の£62,000と同等)、大蔵卿委員会(英語版)の官職(下級大蔵卿)への就任打診が原因となり、コーンウォールは1774年に反対側につき(英語版)、政府の一員になった。続く1774年イギリス総選挙では大蔵省の手中にある腐敗選挙区のウィンチェルシー選挙区(英語版)に鞍替えして当選した。以降1784年まで同選挙区の議員を務め、1784年イギリス総選挙で隣のライ選挙区(英語版)に鞍替えした。下級大蔵卿には1774年に就任、1780年まで務めた。 1775年、コーンウォール家が10世代もの間所有したベリントン(英語版)を庶民院議員トマス・ハーレー(英語版)に売却した。その後、ハーレーはケーパビリティ・ブラウンにベリントン・ホールの立地選びを依頼、建築家ヘンリー・ホランドにベリントン・ホールの改築を依頼した(1783年完成)。 1780年9月22日、北トレント巡回裁判官(英語版)という賃金100ポンド(2018年時点の£13,000と同等)の閑職に任命され、1789年まで務めた。
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