幽州・冀州を征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
同月、慕容儁は次いで范陽まで進出し、城を陥落させた。范陽郡太守李産が8城の令長(県令と県長)と共に降伏すると、慕容儁はこれを許して引き続き范陽郡太守に任じ、今まで通り統治を委ねた。この時、李産の子の李績は王午・鄧恒の配下として魯口にいたが、王午の許しを得て城を離れると、前燕に帰順した。 4月、慕容儁は弟の慕容宜を代郡の城郎に、孫泳を広寧郡太守にそれぞれ任じ、幽州の郡県全てに守宰(太守や県令)を設置した。 同月、薊の守備を中部侯釐慕輿句に委ねると、自ら軍を率いて鄧恒・王午の守る魯口へ侵攻した。清梁まで進撃した時、鄧恒配下の将軍鹿勃早は数千の兵で夜襲を仕掛け、その半数が前燕の陣営へ侵入した。彼らはまず前鋒都督慕容覇の陣へ突入したが、慕容覇は奮戦して自ら10人余りの敵兵を殺して鹿勃早軍の進撃を食い止めたので、その隙に前燕軍は防備を整えることが出来た。慕容儁はこの夜襲に動揺し、折衝将軍慕輿根へ「敵の士気は旺盛だ。一旦退却すべきではないか」と尋ねると、慕輿根は顔つきを改めて「我等は多勢で敵方は無勢。真っ向勝負では敵わないので、万一の僥倖を願って夜襲を掛けたに過ぎません。我等は賊を討伐する為にここまで来て、今その賊が目の前にいるのです。何を躊躇なさることがあるのです!大王はただ横になって居られて下さい。臣等が大王の為に敵を撃破して見せましょう!」と答えた。だが、慕容儁はそれでも不安を拭う事が出来ず、内史李洪に護衛されながら宿衛を出て高い丘の上へ避難した。慕輿根は側近の精鋭数百人を率いて大将旗の目前で鹿勃早軍と交戦し、さらに李洪もまた騎兵を整えてから加勢し、彼らは多数の敵兵を斬り殺すか捕虜とした。鹿勃早は遂に攻勢を諦めて逃亡を図ると、慕輿根らはこれを40里余りに渡って追撃を掛けた。これにより数千の兵はほぼ全滅し、鹿勃早は体一つで落ち延びた。こうして慕容儁は勝利を収めたものの、敵軍は未だ強勢であると判断し、薊まで一時撤退した。 8月、代郡の豪族趙榼は前燕による統治を拒み、300家余りを率いて離反すると、後趙の并州刺史張平により迎え入れられた。慕容儁はさらなる離反を防ぐ為、広寧・上谷の二郡の民を徐無に、代郡の民を凡城に移住させた。 9月、慕容儁は再び出征を開始すると、南へ進んで冀州まで到達し、章武・河間の2郡を攻略した。 当時、勃海郡の高城では賈堅が数千の衆を率いて割拠していたので、慕容儁は慕容評を勃海へ派遣して賈堅を招聘させた。だが、賈堅は降伏に応じなかったので、慕容評は高城を攻撃してこれを攻め落とし、首級3千余りを挙げて賈堅を捕らえた。慕容儁は賈堅の才能を愛し、楽陵郡太守に任じた上で引き続き高城の統治を任せた(高城は勃海郡に属しているが、楽陵郡に隣接している)。また、慕容評を章武郡太守に、慕容恪を河間郡太守に任じた。 10月、慕容儁は薊へ帰還した。その後、諸将に薊城の留守を委ねると、一旦龍城へ帰還して父祖の陵墓・宗廟に拝謁した。
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