年刊誌『青騎士』
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1911年6月19日、カンディンスキーはマルクに、図版と論文を掲載した芸術年刊誌を刊行することを提案し、マルクが同意した。マルクの友人であったアウグスト・マッケも、早くからこの計画にかかわった。年刊誌の編集は、展覧会によって青騎士の知名度を高めるまで延期されたが、同年10月には準備が非常に活発になった。カンディンスキーは同時代ロシアの芸術家による論文を何点かドイツ語に訳して誌面のほぼ半分を書き、また自分の取り組んでいた芸術上の問題を『フォルムの問題について』と『舞台の構図について』の二つの論文で追究した。 マルクはとくに同時代の芸術運動との関係について言及した。またシェーンベルクは音楽と歌詞との関係について書き、シューベルトが彼の『歌曲集』の詩に関心を持たなかった点を引用し、音楽における文学的内容の有用性を否定した。 年刊誌の表紙には、馬にまたがる騎士が青を基調に描かれている。これはカンディンスキーによるものであった。 この「青騎士」計画の庇護者は美術蒐集家のベルンハルト・ケーラーと、資金面での援助を約束した発行者のラインハルト・ピーパーであった。そしてこの計画のもう一人のパトロンは、美術史家で美術館の専門家フーゴ・フォン・チューディであった。彼は年刊誌のために141の図版を提供したが、刊行前に亡くなった。年刊誌『青騎士』は19の記事と3つの楽譜の付録とともに第一回「青騎士」展のすぐ後、1912年5月半ばにミュンヘンでピーパー書店から刊行された。第一版は1200部印刷されたがこれは順調に売れ、1914年の夏には再版され、数カ国語に翻訳された。 「フランス、ドイツ、ロシアでの最新の絵画運動、そしてそれらが見せる、ゴシックやプリミティフ、またアフリカや偉大なる東洋とともにある、自然で力強く表現的な民族芸術、子どもの芸術の主題へのかすかな関連、特にヨーロッパにおける最も新しい音楽運動、そして我々の時代における新しい舞台理念」――年刊誌『青騎士』のコンセプトはこのマルクの言葉に明確に表れている。 挿入された数多くの図版は非常に多様でユニークなものだった。青騎士に携わった芸術家の作品はもとより、ピカソ、セザンヌ、同時代の様々な国の画家の作品、またアジアやアフリカの民族工芸品の写真や、日本や中国の絵画、中世ドイツの木版画、子供の描いた絵、さらにシェーンベルクやヴェーベルンの楽譜の付録であった。シェーンベルクは論文と絵に加えて「心のしげみ」(独:Herzgewächse)の楽曲をこの『青騎士』誌に寄稿している。 しかし、「年刊誌」として計画されたこのプロジェクトは、創刊号を刊行したのみで、第2巻の企画途上で放棄されてしまった。(#青騎士の終焉を参照)
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