市中の開発とケヤキ並木の保護
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「馬場大門のケヤキ並木」の記事における「市中の開発とケヤキ並木の保護」の解説
明治の廃仏毀釈の後、20世紀に入ると名所旧跡を保存すべきという国家的機運が高まり、1913年に設立された府中町青年会は『武蔵国府名蹟誌』の刊行を事業として掲げ、名所旧跡の保存と府中町とその周辺を世に広める努力を行った。『武蔵国府名蹟誌』は1916年に刊行された。また、同じ1916年『国民新聞』紙上で行われた「理想的郊外生活地の募集」の際には町民挙げての投票活動により、1位を獲得している。『国民新聞』に掲載された府中町の紹介で、ケヤキ並木に関して「府中の町の誇りとすべき」「広野に叫ぶ巨人」と形容している。 これら活動熱が高まる中、1924年、馬場大門欅並木が日本政府から「天然紀念物」に指定された。 しかし、馬場大門がケヤキ並木としてにぎやかになるにつれ、市中の開発による弊害が出るようになる。1928年、京王電気軌道は新宿追分駅 - 東八王子駅間の直通運転を開始する。この直通運転開始により、馬場大門のケヤキ並木が踏切で分断された。しかし、この分断を問題視する当時の意見は記録として残されていない。 馬場大門のケヤキ並木の保護を訴えた人物として、宇津木雅一郎が挙げられる。宇津木は東京日日新聞の記者で、昭和初期に府中に在住する。宇津木は1936年「欅並木会」という句会を定期的に開催するようになる。そして、1942年にケヤキ並木の調査報告書を作成し、トラックの往来をすぐにやめ、早急に並木を保護せよと訴えた。1946年には「欅並木会」を改組し、ケヤキ並木の保護に賛同する会員を集めるようになる。 初めは目的のはっきりしないところがあった「欅並木会」だが、ほどなくして都市計画道路の路線変更嘆願を行った。この都市計画道路が完成すると、またもや並木が分断されてしまうという主張を展開したのである。結果的にはこの主張は認められず、1956年に甲州街道のバイパス(国道20号)が開通し、ケヤキ並木がまたしても分断されることになった。「欅並木会」には道路推進派の府中町関係者も参加しており、この関係者らは嘆願に署名しなかった。しかし、この府中町とのつながりが行政による積極的保護に続いてゆく。 1954年に市制施行した府中市は1956年に文化財専門委員会を発足させる。この文化財専門委員会に「欅並木会」のメンバーが合流する。宇津木の他、疎開後府中市に在住していた植物学者大賀一郎など、「欅並木会」のメンバーが数多く委員に就任した。そして、文化財専門委員会の第一回の議題として馬場大門のケヤキ並木が取り上げられたのである。 しかし、高度経済成長期には、街中のケヤキ並木は日陰になって暗い、落ち葉の清掃が手間など、ケヤキ並木の保護に否定的な意見もあった。例えば、1960年には「邪魔な天然記念物」という題で、「街中で人に迷惑をかける天然記念物など不要」との投書が週刊文春に掲載されている。これら否定的な意見は時代の流れとともに小さくなり、1974年の市政世論調査では92%の市民が並木の積極保存を望んでいるとの結果を得ている。しかし、宇津木雅一郎が訴えたトラックや都市計画道路の問題は、現代でもケヤキ並木の保護と交通政策との兼ね合いの問題として、解決していないといえる。
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