市中心部の戦い
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「マニラの戦い (1945年)」の記事における「市中心部の戦い」の解説
市中心部と港湾部にもアメリカ軍が突入した。マラカニアン宮殿は激戦地となり破壊された。南からのアメリカ第11空挺師団は2月11日にニコラス飛行場を占領し、13日には北部からの第14軍団と接触した。日本軍は官公庁などの強固な建造物に拠って抵抗したが、包囲下に陥っていった。 日本側の第14方面軍や南西方面艦隊司令部などは、マニラ海軍防衛隊の撤退を実現しようとなお努力していた。岩淵少将も命令に従って2月9日にマニラ市内からフォート・マッキンレーに司令部を移していたが、市内諸部隊の脱出が困難な状況を見て、11日に司令部を市内に戻してしまった。連合軍の戦力を過小評価した振武集団本隊は、撤退支援と士気高揚のため、歩兵第31連隊主力などの6個大隊をもって総攻撃に出たが、死傷600名以上の損害を受けて18日までに撃退された。19日にはフォート・マッキンレーも陥落し、市内の日本軍は完全に孤立した。 2月14日に岩淵少将はこの戦いにおける戦訓を打電した。内容は勝手に陣地を放棄する指揮官が多い事、寄せ集めの即席部隊はゲリラにも劣る烏合の衆などであった。 2月24日、岩淵少将は、拠点を死守する旨の決別電を発した。25日、市内の日本陸軍部隊はついに一斉脱出を試みたが、途中の戦闘で野口大佐と2人の大隊長は戦死した。翌26日に岩淵少将もできる限り部下を脱出させた後に司令部で自決した。3月3日、アメリカ軍はマニラでの戦闘終結を宣言した。
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