巨人軍創設に参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 05:41 UTC 版)
船中、ウォレス平井という日系二世のスポーツ記者と親しくなる幸運に恵まれる。ジミーの話に興味を持った平井は、ホノルルの二ヶ国語新聞『日布時事』にジミーの野球人生に関する記事を掲載してくれた。立ち寄ったハワイで田中義雄に誘いが来たことを知る(田中は辞退)。10月、日本に着いたジミーはすぐに「カナリーズ」時代の自分の写真と平井の記事のコピーを同封した手紙を全日本チームの監督・三宅大輔に送った。三宅はニッポンズが1931年来日したときに審判を務めており、ジミーを知っていた可能性が高い。こうして全日本チームの選抜テストを受け合格。ジミーはすぐに報酬はいくらかと尋ねたが、三宅は全日本チームはアマチュアでなければならないが、このまま全日本に留まり、読売が創設するプロ野球リーグに参加の意思があるのなら、その時点で遡って報酬を払ってもいいと答えた。これにより全日本チームの加入とそれに続いて結成予定のプロチーム「大日本東京野球倶楽部」への採用がその場で決まった。唯一人の外地出身者として全日本チーム入り。巨人軍初代背番号4。 同年11月、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらを擁するMLB選抜チームと対戦する全日本の六大学出身の強打者を押しのけ四番に座る。しかしプレッシャーからか不振に陥りスタメン落ちし惨憺たる成績に終わる。有名な沢村栄治の快投試合では6回から出場、送りバント1。MLB選抜チームは全15試合中、47本のホームランを放ったが、日本人打者が放ったホームランは全部で3本、うち1本をジミーが打った。全米チームに強烈な印象を与え、メジャーリーグ契約を勝ち取る野望は潰えた。グラウンドでは振るわなかったが、唯一英語が話せたため通訳を買って出て両チームの選手の交流に一役買った。両チームの選手は同じ列車で移動し同じ宿に宿泊したという。 翌1935年のアメリカ遠征では、サンフランシスコ・ミッションズ(ミッション・レッズ)との第二戦、3番を打ちライトフェンスを軽々と飛び越えるスリーランホームランを放ち、初戦に完封負けを喫して非力という烙印を押されていた日本のベースボールプレーヤーのイメージを覆した。また日本のプロ野球チームが、アメリカのプロ野球チームに対して挙げた初勝利に大きく貢献した。その後も強打を発揮しチーム最多のホームランを放ったとされる。好成績により、遠征終了後、サクラメント・セネターズ(AAクラス)と契約しアメリカに残留。1930年代、パシフィック・コーストリーグはマイナーリーグのAAクラスとされていたが、実質的なプレーのレベルはメジャーリーグとほとんど変わらなかった。この遠征で最も活躍したのは沢村栄治と田部武雄であったが、当時は日本からの移民の門戸は閉ざされており、日本国籍の選手がアメリカでプレーすることは不可能だった。
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