工芸家として
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大学を卒業した1987年には、日本新工芸展で初めての入選を果たした。さらに、大学院を修了した1989年には、日展で初めての入選を果たした。以降も工芸家として活動を続けていた。また、後進の育成にも努めた。東京都教育庁に採用され、1990年4月から1999年3月にかけて、東京都の公立中学校にて教諭を務めた。中学校の教科としては美術を担当した。 その後、国立大学である広島大学に採用され、1999年4月から2005年3月にかけて、広島大学の附属中学校・高等学校にて教諭を務めた。中学校の教科としては美術を担当し、高等学校の教科としては工芸を担当した。なお、広島大学の設置者は、2004年4月に国立大学法人に変更されたが、以降も引き続き勤務した。 その後、母校である東京学芸大学などを設置・運営する国立大学法人に採用され、2005年4月から2013年3月にかけて、東京学芸大学の附属高等学校にて教諭を務めた。高等学校の教科としては、美術と工芸の双方を担当した。なお、高等学校の教師として勤務する傍ら、他の教育・研究機関でも教鞭を執っていた。2008年4月から2012年8月にかけて、東京学芸大学の教育学部にて講師を非常勤で兼務していた。教育学部においては、美術科教育学分野を受け持った。 また、秋田公立美術大学を設置・運営するために新設された公立大学法人に採用され、2013年4月に秋田公立美術大学の美術学部にて准教授に就任した。美術学部においては、主として美術学科の講義を担当した。2019年3月まで准教授として勤務していたが、同月に美術学部の教授に昇任することになった。
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工芸家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 01:10 UTC 版)
1942年新文展出品の「沈金漆筥」が初入選、1965年日本現代工芸美術展出品の「飛翔」が現代工芸大賞読売新聞社賞受賞、1966年日展出品の「集」が特選北斗賞受賞、1970年改組日展出品の「翼」が特選北斗賞受賞、1977年輪島塗技術保存会会員となる。 1978年日展出品の「星月夜」が日展会員賞受賞、1984年北國文化賞受賞、1988年日本芸術院賞受賞、石川テレビ賞受賞、1989年日展理事、1991年現代工芸美術家協会常務理事、石川県文化功労賞受賞、1993年勲四等旭日小綬章、1994年輪島塗技術保存会副会長、中日文化賞受賞、2002年芸術院会員。2015年文化功労者。 2017年7月12日、肺炎のため金沢市内の病院で死去。98歳没。没後に正四位に叙された。
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