工芸専門学校、アテネウム
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「トーベ・ヤンソン」の記事における「工芸専門学校、アテネウム」の解説
1930年5月に15歳のトーベは学校を自主退学し、9月30日にストックホルム工芸専門学校(英語版)に入学する。女子学生クラスB部で美術学生として広告やデザインの勉強を始め、技法の授業を特に楽しみとした。型にはまった授業や生活には慣れなかったが、芸術家を目指す仲間との出会いは楽しんだ。家計を助けたいという考えもあり、進級について悩み続けた。進級後は美術工芸と印刷を学び、1933年に修了した際には装飾絵画で最高成績が与えられた。絵画クラスには名物教授として知られるオスカル・ブランドベリがおり、ブランドベリはトーベのテンペラ画を見て美大への受験をすすめた。しかし、トーベは美大を受験せず、卒業後は家族のもとへ帰ることを決める。トーベが1933年に工芸専門学校を卒業した際、旅費の問題でシグネは卒業式に出席できなかった。 帰国後のトーベは家族と暮らし、ヘルシンキにあるフィンランド芸術協会美術学校(英語版)(アテネウム)に通った。アテネウムもトーベにとって居心地は良くなかったため、休学をへて夜間コースを選んだ。アテネウムに通いながらイラストや装飾画の仕事もした。文章も書き続けており、1934年には最初の短編小説『大通り』を執筆して雑誌掲載した。 トーベは1935年に画家のサミュエル・ペプロスヴァンニ(サム・ヴァンニ(英語版))と知り合い交際した。トーベはサミュエルを題材とした木炭画やカレワラ風の作品を制作し、サミュエルは1940年にトーベの肖像を木炭画で描いた。トーベはサミュエルを芸術家として尊敬したが、サミュエルの喋りすぎる癖は苦手だった。のちに恋人となるタピオ・タピオヴァーラ(フィンランド語版)ともアテネウムで出会っている。タピオはフィンランド語を母語とする初めての親しい友人だった。 アテネウムの絵画コースでは性差別を経験した。男性が優先されてクラスの女性は減っていき、トーベとエヴァ・セーデルストレムの2人だけとなった。トーベは1935年春の絵画コースで1等を獲得したが、12月の展示では男性の作品が良い場所に飾られた。校内で起きたフィンランド語とスウェーデン語に関する言語闘争もトーベを悩ませた。トーベは「ここで続けても何にもならない」と日記に書き、学生仲間とタハティトルニ通りにアトリエを構えた。ここがトーベにとって最初の自分のアトリエとなる。欠席や休学を繰り返してアテネウムを卒業したあとは、より自分に合った自由芸術学校に入学した。この学校は現代美術の動向や国際性を重視しており、トーベはヒャルマル・ハーゲルスタム(フィンランド語版)らに学んだ。のちにトーベはハーゲルスタムのアトリエを使うことになる。1935年に画家協会会員、1937年には芸術協会会員となった。1930年代には、ヤンソン一家は芸術家一家として取材を受けるようになった。
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