山縣閥の拡大と結集とは? わかりやすく解説

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山縣閥の拡大と結集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)

山縣有朋」の記事における「山縣閥の拡大と結集」の解説

日清戦争後には、伊藤内閣議会の関係を模索立憲自由党手を組み連立構想していた。また松方伊藤への対抗として大隈重信進歩党との提携企てていた。しかし藩閥官僚はこれに強く反発、反政党を貫く山縣旗印とする派閥形成していくこととなる。第2次伊藤内閣自由党板垣退助内務大臣となったことは内務官僚反発を生み、明治28年11月から29年7月にかけて山縣閥が形成促進されていった8月第2次伊藤内閣総辞職後にできた第2次松方内閣は、大隈重信外相とし、進歩党支援受けていたが、清浦奎吾法相はじめとする山縣閥の官僚とその同調者が4人閣僚入りしている。続く明治31年1898年1月第3次伊藤内閣には山縣系の芳川顕正外相桂太郎陸相入閣している。また、1月20日山縣大山西郷とともに軍人最高の地位である元帥称号を受け、終身現役軍人になった。陸軍の重要人6月伊藤辞任し憲政会大隈板垣後継とする旨を上奏した際、明治天皇はこれを「伊藤内閣大隈板垣入閣する」と考え、これを許可した。しかし誤解悟った明治天皇は、山縣組閣依頼した山縣はすでに大隈らに伝わっている以上撤回は困難であり、天皇累が及ぶとして辞退した。こうして成立した第1次大隈内閣はほとんどの閣僚憲政会党員占め政党内閣となったが、桂太郎引き続き陸相務めた山縣政党内閣成立を「明治政府落城」と嘆いた。 しかし憲政党は旧進歩党系と旧自由党系の内訌激しく山縣官僚伊東巳代治通して自由党星亨密かに接触しており、山縣もこれを黙認していた。また山縣平田東助貴族院の反政党派を結集させるよう工作させた。貴族院明治24年から近衛篤麿らが結成した三曜会四将軍派のうち三浦を除く谷ら3人を中心に結成した懇話会勢力をもっており、藩閥政府批判的な勢力多かった山縣は、親政府会結成のため研究会茶話会てこ入れ清浦平田東助送り込んで増員企てた明治30年1897年)の議員互選研究会三曜会懇話会勝利しており、山縣閥の貴族院掌握は困難もなく過半数掌握する至ったが、10月末に大隈内閣内紛あっけなく崩壊した11月には無所属団第一次無所属)が誕生し茶話会無所属団などほかの会派取り込んで明治32年12月幸倶楽部派結成した研究会幸倶楽部派連携山縣閥の貴族院支配確固たるものとなり、三曜会懇話会互選敗北以後没落していった。 軍でも山縣形成進み山縣終生現役元帥として、また山縣閥の総帥として、陸軍の重要人事に関与する慣例的権限保持するようになった山縣直系児玉寺内正毅陸相歴任していった。一方で薩摩閥の領袖大山老いて病気がちであり、川上操六参謀総長も病がちで明治31年頃からはほとんど職務任せ有様であった明治32年川上没した後は大山が再び参謀総長となったが、陸軍における山縣閥の優位は完全に確立された。また大隈内閣による官界猟官活動官僚藩閥政党への反発を生み、一貫して政党対抗してきた山縣への支持はいよいよ強くなった。

※この「山縣閥の拡大と結集」の解説は、「山縣有朋」の解説の一部です。
「山縣閥の拡大と結集」を含む「山縣有朋」の記事については、「山縣有朋」の概要を参照ください。

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