山縣閥の拡大と結集
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日清戦争後には、伊藤が内閣と議会の関係を模索、立憲自由党と手を組み連立を構想していた。また松方は伊藤への対抗として大隈重信の進歩党との提携を企てていた。しかし藩閥官僚はこれに強く反発、反政党を貫く山縣を旗印とする派閥を形成していくこととなる。第2次伊藤内閣で自由党の板垣退助が内務大臣となったことは内務官僚の反発を生み、明治28年11月から29年7月にかけて山縣閥が形成が促進されていった。 8月の第2次伊藤内閣総辞職後にできた第2次松方内閣は、大隈重信を外相とし、進歩党の支援も受けていたが、清浦奎吾法相をはじめとする山縣閥の官僚とその同調者が4人閣僚入りしている。続く明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣には山縣系の芳川顕正外相と桂太郎陸相が入閣している。また、1月20日に山縣は大山・西郷らとともに軍人最高の地位である元帥の称号を受け、終身現役軍人になった。陸軍の重要人事6月に伊藤が辞任し、憲政会の大隈・板垣を後継とする旨を上奏した際、明治天皇はこれを「伊藤の内閣に大隈と板垣が入閣する」と考え、これを許可した。しかし誤解を悟った明治天皇は、山縣に組閣を依頼した。山縣はすでに大隈らに伝わっている以上撤回は困難であり、天皇に累が及ぶとして辞退した。こうして成立した第1次大隈内閣はほとんどの閣僚を憲政会党員が占める政党内閣となったが、桂太郎は引き続き陸相を務めた。山縣は政党内閣の成立を「明治政府の落城」と嘆いた。 しかし憲政党は旧進歩党系と旧自由党系の内訌が激しく、山縣系官僚は桂・伊東巳代治を通して旧自由党の星亨と密かに接触しており、山縣もこれを黙認していた。また山縣は平田東助に貴族院の反政党派を結集させるよう工作させた。貴族院は明治24年から近衛篤麿らが結成した三曜会、四将軍派のうち三浦を除く谷ら3人を中心に結成した懇話会が勢力をもっており、藩閥政府に批判的な勢力が多かった。山縣は、親政府会派結成のため研究会・茶話会にてこ入れし清浦・平田東助を送り込んで増員を企てた。明治30年(1897年)の議員互選で研究会が三曜会・懇話会に勝利しており、山縣閥の貴族院掌握は困難もなく過半数を掌握するに至ったが、10月末に大隈内閣は内紛であっけなく崩壊した。 11月には無所属団(第一次無所属)が誕生し、茶話会・無所属団などほかの会派を取り込んで明治32年12月に幸倶楽部派を結成した。研究会と幸倶楽部派の連携で山縣閥の貴族院支配は確固たるものとなり、三曜会・懇話会は互選敗北以後没落していった。 軍でも山縣閥形成が進み、山縣は終生現役の元帥として、また山縣閥の総帥として、陸軍の重要人事に関与する慣例的権限を保持するようになった。山縣直系の桂・児玉や寺内正毅が陸相を歴任していった。一方で薩摩閥の領袖大山は老いて病気がちであり、川上操六参謀総長も病がちで明治31年頃からはほとんど職務を桂に任せる有様であった。明治32年に川上が没した後は大山が再び参謀総長となったが、陸軍における山縣閥の優位は完全に確立された。また大隈内閣による官界の猟官活動は官僚・藩閥の政党への反発を生み、一貫して政党に対抗してきた山縣への支持はいよいよ強くなった。
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