山縣閥・山縣系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
山縣はこれと見込んだ軍人や官僚を要職に就けて見捨てることがなく、これが自然と「山縣系」ともいえる人脈を形成した。山縣が引き上げた人材からは4人の総理大臣が輩出され(桂太郎・寺内正毅・清浦奎吾・田中義一)、西周や森鷗外も登用されている。また第二次山縣内閣期には原敬や加藤高明についても抜擢をしようとしたが、これは本人たちが断っている。 派閥の形成は、同時に元長州藩出身の人材ばかりを要職に就かせる手法にも映り、長閥として嫌う者も多かった。しかし、熊本県出身の清浦奎吾・山形県出身の平田東助・兵庫県出身の田健治郎など藩閥外の人物も多く抜擢している。十四年間秘書官として仕えた入江貫一は、はじめは容易に人を信用しないが、「一度信用されると思ひきつた信用をなさる性格」であると評しており、平井政遒も同意している。しかしこれらの山縣閥の中にも、鳥尾小弥太や桂太郎のように、後年になって山縣の敵対者となるものもいた。 尾崎行雄は山縣が門下の人々に情が厚く、また裏切ったものにも目をかけていたことが山縣派の結束力の高さに結びついたとしている。望月小太郎は山縣の世話でイギリス留学を行い、後に政党政治家となって尾崎とともに山縣と対立した人物であるが、山縣は終始好意を向けており、晩年には親密になったという。
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