小松宮
小松宮家
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1881年(明治14年)、彰仁親王は永世皇族となる。もともとは一代限りの皇族であった。1885年(明治18年)12月、子どものいなかった彰仁親王は、伏見宮邦家親王の第17王子依仁親王(当時の名前は定麿王)を養子に迎えた。しかし、しだいに依仁親王を排除し、北白川宮能久親王の第4王子輝久王を後継者にしようと考えるようになった。1902年(明治35年)4月、宮内大臣の田中光顕に臣籍降下し、輝久王を養子に迎えることを願う。田中が難色を示すと、彰仁親王本人が臣籍降下を断念する代わりに輝久王を臣籍降下させて侯爵として、財産を相続させて、依仁親王を別家させることを願った。その結果、1903年(明治36年)1月、依仁親王との養子縁組は解消されて、依仁親王は東伏見宮家を創設した。ただし、輝久王の臣籍降下は認められなかった。1903年(明治36年)2月、彰仁親王は薨去、頼子妃らは輝久王の小松宮家相続を願ったものの、認められなかった。そのため、小松宮は一代で絶家することになった。しかし、1910年(明治43年)7月20日、輝久王は臣籍降下し、小松輝久侯爵と名乗り、小松宮の祭祀を継承した。
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