臣籍降下の復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 23:54 UTC 版)
ウィキソースに皇室典範增補 (明治四十年二月十一日)の原文があります。 「永世皇族制」および「臣籍降下」も参照 皇室典範(いわゆる旧皇室典範)制定によって、永世皇族制が確立するとともに、世襲親王家の制度は廃止された。 ところが1898年(明治31年)2月になって、伊藤博文は皇室典範制定時に臣籍降下を規定できなかったのはやむを得ない事情によるものであったとし、皇族数を制限するよう上奏した。翌年、宮中に帝室制度調査局が設置され、1907年(明治40年)になって5世以下の王が勅旨又は情願によって華族になる(賜姓降下)ことや、降下した後に皇族に復帰できないこと等が定められた。 その後、勅旨による降下は皆無であり、請願による降下も明治43年(1910年)7月に北白川宮家の輝久王が小松宮家の祭祀継承のために降下した1例のみに留まっていた。そこで、規定の運用のため、大正8(1919)年1月から帝室制度審議会で「皇族処分内規案」が検討された 結果、下記の通りとなった。 天皇の5~8世の子孫は各世代に一人のみ留まり、それ以外の王は請願が無ければ勅旨により華族に列する 伏見宮邦家親王の子孫については、邦家親王の王子を1世として計算する この具体的基準案は枢密院での諮詢・修正を経て「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」として可決され、1920年(大正9年)5月15日の皇族会議にかけられた。しかし、久邇宮邦彦王から「皇統の断ずる懸念あり」「(皇太子以外の、未成年である大正天皇の皇子達が)会議に列せらるゝ様になりたる後、之を定めらるゝ方適当と信す」と反対意見が挙がり、これに同調する皇族もあった。そこで、皇族会議令第9条による、自己の利害に関することは表に参加できない規定を適用して、議長の伏見宮貞愛親王は表決しないことを決し、同年5月19日に大正天皇の裁定で成立した。 以後、大正時代に3名、昭和時代に9名が、旧皇室典範により臣籍に降下した。
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