臣籍から皇位へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 臣籍から皇位への意味・解説 

臣籍から皇位へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:08 UTC 版)

宇多天皇」の記事における「臣籍から皇位へ」の解説

光孝天皇第七皇子であり、母は皇太后班子女王桓武天皇皇子仲野親王の娘)であった父帝光孝は、先代陽成天皇大叔父にあたり、陽成が不祥事によって退位させられたために即位至ったことから、自身の後は陽成の同母貞保親王など嫡流皇位が戻ることを考え元慶8年884年6月26人の皇子皇女源姓を賜い臣籍降下させた。定省王もその一人であり、源定省みなもと の さだみ)と称した定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間御椅子の前で在原業平相撲をとり二人の体が椅子ぶつかって手すり折れた逸話残っている。 光孝皇太子立てることのないまま、即位から3年後仁和3年887年)に重態陥った関白藤原基経は、天皇内意貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統嫡流近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方基経自身は特に定省気に入っていたわけではない ものの、定省基経の仲の良い異母妹藤原淑子猶子であり、天皇近侍する尚侍ないしのかみ)として後宮強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議決した同母兄の源是忠差し置いて弟の定省皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦天皇受け入れて皇太子立てる形が取られた。定省8月25日皇族復帰して親王宣下を受け、翌26日立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚し、11月17日即位した

※この「臣籍から皇位へ」の解説は、「宇多天皇」の解説の一部です。
「臣籍から皇位へ」を含む「宇多天皇」の記事については、「宇多天皇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「臣籍から皇位へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「臣籍から皇位へ」の関連用語

臣籍から皇位へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



臣籍から皇位へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宇多天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS