客船としての利用の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 08:21 UTC 版)
「水中翼船」の記事における「客船としての利用の始まり」の解説
ドイツでは、第二次世界大戦以前から戦中にかけて、フォン・シェルテル男爵が水中翼船を開発していた。戦後、シェルテルのチームはソビエト連邦(ソ連)に連行された。しかしソ連ではドイツ人が高速船の建造に関われなかったため、シェルテルはスイスに移り、そこでシュプラマル (Supramar) という会社を創業した。1952年、シュプラマルは世界初の商用水中翼船 PT10 "Freccia d'Oro"(金の矢)を作り、スイスとイタリアの国境線上にあるマッジョーレ湖に浮かべた。PT10は半没型で乗客32名を乗せ、35ノット(65 km/h)で航行できた。1968年、バーレーン生まれの銀行家フセイン・ナジャディがシュプラマルを買収し、日本、香港、シンガポール、イギリス、ノルウェー、アメリカ合衆国に営業を拡大した。アメリカのジェネラル・ダイナミクスがライセンス提供を受け、国防総省はスーパーキャビテーションについての海軍の研究開発プロジェクトを委託した。日本では日立造船がシュプラマルからライセンス供与を受けた。他にもOECD各国の海運業者や造船業者がライセンスを取得した。 1952年から1971年にかけて、シュプラマルは PT20、PT50、PT75、PT100、PT150 といった水中翼船を設計。これらはいずれも半没型だが、PT150は前方の水中翼が半没型で後方の水中翼が全没型だった。シュプラマルの設計に基づいた水中翼船は200艘以上建造されており、特にイタリアの Rodriquez Cantieri Navali(イタリア語版) が建造したものが多い。 同じ頃、ソ連でも水中翼船の改良が進み、冷戦中の1980年代まで様々な水中翼船型のフェリーや川船が建造された。例えば、Raketa(1957年)、さらに大型の Meteor や小型の Voskhod などがある。ソ連時代の水中翼船の改良に最も貢献した人物として ロスチスラフ・アレクセーエフ がいる。彼は1950年代に高速水中翼船を開発し、後に水中翼船の経験と地面効果の原理を組み合わせてエクラノプランを生み出した。ソ連が崩壊するまで、1956年~1991年の間に各型の水中翼船は1300艘以上建造されている。 1961年、スタンフォード研究所は「アメリカ国内や海外での水中翼船による旅客輸送の経済的実現可能性」と題した研究報告を行った。アメリカ国内初の水中翼船の商用航路は、1961年、ニュージャージー州アトランティック・ハイランドからマンハッタン南部の商業地区までを結ぶ航路で、Harry Gale Nye, Jr. の North American Hydrofoils が運営した。
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