客船として復帰
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「シティ・オブ・ニューヨーク (客船)」の記事における「客船として復帰」の解説
1899年1月、ニューヨークは再び民間船としてニューヨーク - サウサンプトン間の定期船となった。その航海の途中でエンジンが故障し、3ヶ月間修理を受けた。その際に改装され、エンジンを修理し、3本あった煙突は2本に減らされた。そして1903年4月14日に再び航路についた。 1912年4月10日、客船オーシャニックのそばに停泊していたニューヨークは、処女航海に出発しようとしていたタイタニックのスクリューの水流に巻き込まれ、衝突しそうになった。このときタイタニックの船長エドワード・スミスは、すぐにスクリューを逆回転させ、タグボートを利用して両船を引き離したため、辛うじて衝突は免れた。 1913年、ニューヨークは再び改装を受け、2等船室と3等船室のみになった。そして航路も変更され、通常のサウサンプトン - ニューヨークからリヴァプール - ニューヨーク間となった。
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客船として復帰
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「モーリタニア (客船・初代)」の記事における「客船として復帰」の解説
1919年9月21日、「モーリタニア」は再び客船として復帰した。「モーリタニア」の航海スケジュールは非常に忙しく、1920年にスケジュールの見直しが行われたが、1921年にEデッキで火災が発生したことを受け、キュナード・ラインは本格的な改修を検討し始めた。「モーリタニア」はタインのドックへ移動させられ、ボイラーは主缶重油専焼へ変えられ、1922年3月に使用され始めた。だが速力などの問題から、1923年、サウサンプトンで大規模な改修が行われ、蒸気タービンは廃止された。しかし改修の途中でストライキが起こり「モーリタニア」の工事がストップしたため、キュナード・ラインは「モーリタニア」をシェルブールまで曳航し、工事は別の造船所で再開された。何とか工事を終えた「モーリタニア」は、1924年5月に大西洋での運航を再開した。 1928年、「モーリタニア」の内装は新しいデザインへと変更されたが、その翌年、ドイツ客船「ブレーメン」が平均速度28ノット(52km/h)を記録し、22年間保持してきたブルーリボン賞を奪われた。このことについて8月27日にキュナード・ラインは、再びブルーリボン賞に挑戦するようなことはしないと発表した。「モーリタニア」は改装で、十分な馬力のあるエンジンを搭載していたが、それでも「ブレーメン」を追い越すのには力不足であり、また、革新的な次世代の客船に「モーリタニア」で挑むのには無理がある、との判断だった。こうして「モーリタニア」は「ブレーメン」に挑むことなく西回り航路、東回り航路の両方を奪われることとなった。 1929年、「モーリタニア」はロビンズ暗礁付近で鉄道連絡船と衝突したが、両船共に怪我人、死者は出ず、双方の損傷もそれほどひどいものではなかった。1930年頃から始まった世界恐慌の影響で大西洋定期船からクルーズ客船に転用され、1934年にホワイト・スター・ラインとキュナード・ラインが合併し、「オリンピック」や「マジェスティック」などの客船が就航したことによって「モーリタニア」はあまり使用されなくなっていった。
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