実際の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/03 09:28 UTC 版)
この作戦には1つの基本的な欠陥があった。それはイギリス軍がメノルカに近づいている大船団は友好的な意図で来ていると信じるはずだという仮定に立っていたことだった。さらに風のために作戦の修正を余儀なくされ、艦隊の主力が島の北ではなく南を回ることになったために、シウタデリャでの上陸は一時的に不可能になった。午前10時半頃に艦隊はメノルカ島の南東端にあるエアー島を回ってマオー港への接近を始め、一方アルコーファーの部隊は上陸に向かった。11時半を過ぎた頃、艦隊を先導していた艦船のサンパスクアルがセントフィリップ砦の下を通過し、その乗組員は戦闘態勢に着いていた(即座の戦闘は予測されていなかったが、これが海軍の伝統だった)。最終的に午後1時頃にサンパスクアルがメスキダに到着し、艦隊の残りも次第に追いついてきて、上陸準備が始まった。午後6時、浜辺にスペイン旗が立てられ、祝砲23発が放たれた。 イギリス軍はメノルカ島南部海岸に哨塔を建てており、艦隊が接近するのを視認していた。急報が即座にマオーに送られた。さらに島の中心のトロ山にあった哨塔からのより詳しい報告で情報が補われた。正午までにはマオー周辺のイギリス軍関係者の大半がセントフィリップ砦の壁の中に移動しており、港入口には鎖が固定され、狭い海峡には小さな船が沈められて、海からの侵入を不可能にした。知事の家族を含め非戦闘員はヴェネツィア人の船に乗って安全なイタリアに出港する準備を行い、フィレンツェにあるイギリス軍護衛部隊に侵略に関する情報を伝えるようにされた。その伝言には守備隊が「良好な健康状態と士気」にあり、「果敢な抵抗」を行うという言葉で締め括られていた。この船は8月31日にリヴォルノに到着した。スペイン軍がマオーの町に入ったとき、町に残っていた住民の大半はスペイン側であり、歓呼の声で迎えられた。ジョージタウンでは152名の捕虜が捕らえられ、シウタデリャとフォルネルスに派遣された部隊は8月20日に約50名のイギリス兵を見付けただけだった。島をスペイン軍の管理下に置く処置が取られた一方で、クリヨンとマリー知事の間で手紙が取り交わされ、侵攻軍は反撃に備えてその防御を固め始めた。8月23日までにメノルカ島には7,000名以上のスペイン兵が上陸しており、さらに3,000名が間もなく加わった。侵攻軍がその地歩を固めると、艦隊の大半はメノルカ島を離れ、ギシェンは9月15日にブレスト港に戻った。 この侵攻の報せが約4週間後にイギリス本国に知らされると、新聞は守備隊が5,660名居ると報じたが、そのうち1,500名は地元民兵であり、400名は文民労働者だった。これら集団のうち極少数が砦の中に入ったが、イギリスがメノルカ島に迎え入れていた国際的な事業集団、すなわち北アフリカ人、ユダヤ人、ギリシャ人等は入らなかった(アフリカ人とユダヤ人の社会に残っていた者達は9月11日にスペイン軍によって追放され、他の国の者達もその後に追放された)。また守備隊の数には島の他所で侵略軍に捕まった者も含まれていたので、砦守備隊の戦闘要員は3,000名足らずであり、数字を大きく報道したのは侵略軍の意気を落とすための誇張と見られている。
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