宗家・彦根藩主家(掃部頭家)
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「井伊氏」の記事における「宗家・彦根藩主家(掃部頭家)」の解説
1575年(天正3年)、直親の遺児の井伊直政(後に徳川四天王の1人となる)は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、多くの武功をたて、1590年(天正18年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられる。 直政の死後、子の直勝は1604年(慶長9年)に同国彦根に築城した。この築城は幕府が諸大名に御手伝普請を命じたもので。直勝は1615年(元和元年)幕命により弟の直孝に藩主の座を譲った。直孝の代に30万石の譜代大名となる。直勝は安中藩3万石の藩主となった。 譜代大名筆頭として、江戸時代を通じて直澄・直該・直幸・直亮・直弼と5代6度(直該が2度。なお直孝・直澄が大老になったかどうかは議論がある)の大老職を出した。また、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、1度の転封もなかった。 江戸時代末期の藩主直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である安政の大獄を行うが、桜田門外の変で暗殺された。その後、幕政の混乱の責任を直弼に押し付けられる形で10万石を削減されたことから、大政奉還後、最後の藩主直憲は譜代筆頭でありながらも藩論を転向し、鳥羽・伏見の戦い以降戊辰戦争では徳川討滅の急先鋒として新政府側に属して戦った。その功績により維新後の明治2年(1869年)には2万石の賞典禄が下賜された。 同年に華族制度が成立すると華族に列するとともに版籍奉還で彦根藩知藩事に転じ、1871年(明治4年)の廃藩置県まで務めた。華族令施行後の明治17年(1884年)7月7日に伯爵に列した。井伊伯爵家の邸宅は東京市淀橋区角筈にあった。 井伊直憲伯爵の死後、その次男の井伊直忠が爵位を継承した。井伊直忠伯爵の子井伊直愛は、井伊家の旧領である彦根市の市長を1953年から9期にわたって務めた。現当主(18代)井伊岳夫は彦根市役所勤務、彦根城博物館長。17代直豪の長女裕子と結婚して直豪の養子となり井伊家を継承した。
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