守勢転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
同年には東部戦線での春季攻勢が計画され、参謀本部は「ジークフリート計画」を提出した。しかしヒトラーはこの計画を修正し、主作戦に当たる部分は自ら書き替え、ヴォロネジとスターリングラードの攻略を主眼とするブラウ作戦を命令した。4月26日にはドイツにおける最後の国会が開会され、ヒトラーには既存の権利や法によらず処罰や解任を行う権利があることを承認する決議(ドイツ語版)が採択された。 ブラウ作戦は当初順調に進んだものの、スターリングラードの攻略に失敗、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなった上に第6軍が包囲される事態となった(スターリングラード攻防戦)。ヒトラーは撤退や降伏も許さず、「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という理由で第6軍司令官の大将フリードリヒ・パウルスを元帥に昇格させ、暗に自決を求めた。しかしパウルスは1943年1月31日に降伏し、ヒトラーを激怒させた。また北アフリカ戦線においてはエル・アラメインの戦いやトーチ作戦などでの敗北により、枢軸国の勢力は一掃された。戦局の退勢が明らかになったことで、国内におけるヒトラー崇拝にも陰りが見え始めた。 1943年にはクルスクで突出したソ連軍を包囲する「ツィタデレ作戦」が計画されたが、ヒトラーはこの計画を何度も延期させ、攻勢開始は7月までずれ込んだ。7月5日から開始されたこの攻撃(クルスクの戦い)は激戦となったが、7月13日に作戦の中止を命令した。7月10日、シチリア島に連合軍が上陸(ハスキー作戦)したことで、イタリアの政治情勢が不安定となったという報告を受けており、ヒトラーはその情勢に気を取られていた。また赤軍に与えた損害を過大評価していたことや、開発中の弾道ミサイル(V2ロケット)や電動Uボート(UボートXXI型)などの新兵器によって、翌年にはドイツ軍の圧倒的な優位が保たれると考えていた。 7月25日にムッソリーニが失脚、その後9月8日にバドリオ政権が休戦を発表し(イタリアの降伏)、連合国軍はイタリア本土に上陸した。しかし9月12日にオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊によりムッソリーニを救出し(グラン・サッソ襲撃)、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国を成立させた。こうして南部の連合軍と北部の枢軸軍によるイタリア戦線が形成された。 連合軍によるドイツへの戦略爆撃が激しくなると、ヒトラーはドイツ上空から爆撃機が去ったことが確認されるまで眠ろうとしなかった。スターリングラードの敗戦以後は好きな音楽を聴くことも止め、側近に同じような話を連日連夜語るようになった。この頃には日本軍も完全に守勢に回るようになったこともあってヒトラーの不眠症は激しくなり、健康状態はますます悪化した。
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