守勢において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 14:05 UTC 版)
1943年8月に JG3 が撤退すると、JG52 は東部戦線に残されたただ一つの戦闘航空団となった。JG52 は前線の仮設飛行場を絶えず移動し、しばしばソビエト装甲軍に蹂躙される危険に晒された。 1943年11月のドニエプル川の戦いでキエフが失われ東部戦線南方の均衡が崩れると、JG52 は全体で再び各地の防衛強化に当たった。1943年12月には JG52 の戦果は8,000機に達した。ウーマニ地区では、第III飛行隊が60日間に50機を撃墜した。第III飛行隊は最も成功した飛行隊で、1944年3月21日には戦果が3,500機となった。第III飛行隊はその月末までポーランドを拠点としていた。 1944年5月10日には9,000機目の戦果をあげ、1944年9月2日にはアドルフ・ボルヒャースにより10,000機撃墜を越えた。1944年5月に最後のドイツ兵がクリミアから去るより1週間早く、第II飛行隊は撤退している。砲撃と絶え間ない空襲が駐機中の航空機に損失を引き起こしており、まもなくルーマニアへの退却へと続いた。ここでは新たな敵が見出された。アメリカ陸軍航空軍の第15空軍(英語版)によるプロイェシュティ油田爆撃である。6週間の防空戦によりアメリカ軍機を15機撃墜したが、この時に第II飛行隊の稼働機は9機にまで減少した。 連合国軍によるノルマンディー上陸作戦に際しては、JG52 から3つの飛行中隊が西部戦線へと引き抜かれた。代わって新たに加わった2・4・7飛行中隊は年内に稼働を開始し、各飛行隊は4つの飛行中隊へと拡大した。第II飛行隊はこの間に第51戦闘航空団(英語版)(JG 51)の一部となり中央軍集団を支援した。 1945年春、第I飛行隊と第III飛行隊はチェコスロバキアに配置され、第II飛行隊はオーストリアを拠点とした。 終戦時、JG52 の第I飛行隊と第III飛行隊の将兵の大部分はアメリカ軍に降伏したがソ連赤軍に引き渡され、見せしめの裁判の後に長年収監された。
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