宇都宮家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:05 UTC 版)
戦国時代、宇都宮は下野一宮(宇都宮二荒山神社)の神職者であった藤原北家道兼流で開祖・下毛野君の流れをくむとされる下野宇都宮氏の支配下に置かれていた。宇都宮氏は「関東八家」の一つに数え上げられた名門であり、鎌倉時代・室町時代には下野国・上野国・越後国・下総国・伊予国の守護なども歴任し、一門は大いに栄えた。宇都宮氏は常に中央政府の統治機構としてこの地の治安維持に務めた。室町時代後期、鎌倉府足利氏と関東管領上杉氏が抗争の末その勢力が弱まった後も、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏とともに、関東に台頭した北条氏を牽制し、戦国時代には戦国大名に名を連ねるようになった。 天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出した時、宇都宮国綱は豊臣方として参陣し、秀吉より18万7613石の所領を安堵されて北条方の支城攻略に加わった。7月に北条氏直が秀吉に降伏、高野山に追放されて後北条氏は滅亡し、関東・奥羽の諸侯も秀吉に屈して天下統一が完成する。 文禄元年(1592年)、文禄の役に国綱も参陣した。しかし慶長2年(1597年)、国綱は秀吉の命令で所領を没収されて改易となった。理由は太閤検地に際して結果が秀吉が安堵した18万石ではなくその倍以上という石高詐称によるもの、また当時国綱には継嗣がなかったため、重臣の今泉高光が豊臣五奉行である浅野長政の三男長重を養子に迎えようとしたが、国綱の実弟芳賀高武が反対して今泉を討ち取ったためお家騒動に発展、養子話を潰された長政の面目も丸潰れとなり、長政が秀吉に讒訴して改易に追い込んだとする説がある(『宇都宮興廃記』)。国綱は宇都宮を追放されて備前の宇喜多秀家の下に預けられ、慶長の役では名誉挽回と御家再興のために朝鮮に渡海するも、秀吉が慶長3年(1598年)8月18日に病死したため、再興の道は閉ざされた。 国綱は慶長13年(1608年)に死去した。息子の義綱は水戸藩主徳川頼房の家臣となり、その子孫も水戸藩に仕えた。
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