学者・政策提言者として
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1945年(昭和20年)12月、SCAPによる軍人恩給禁止処分を検討する諮問機関として、厚生省保険局内に社会保険制度審議会が設置された。1946年(昭和21年)末までに500万人以上が復員、帰国した。当時、日本全体が意気消沈、混乱し、疾病、失業、犯罪などが蔓延していた。そのような終戦直後に国民の医療費負担は厳しく、疾病が貧困に陥る最大の原因の一つとなっていた。さらに国民健康保険は一億八千万円もの赤字を抱えていた。 社会保険審議会が権益にしがみつき、理想的な社会保障システムは構築し得ないと考えた学者グループは末高信、大河内一男、園乾治、平田冨太郎、近藤文二らの五教授の提唱で「社会保障研究会」を立ち上げる。ベヴァリッジ報告書を基本としつつもより急進的な、給付は同じだが拠出金は所得水準に応じて累進性を持つ「社会保障案」を提唱した。 同年、社会保険制度審議会を発展させた社会保険制度調査会が設置され、社会保険の整備、拡充に関する調査研究を行なうこととなった。 1947年(昭和22年)10月、社会保険制度調査会は日本版べヴァリッジ報告書と考えられる「社会保障制度要綱」を提出し、全国民を対象とした革新的・総合的制度を提言した。 1954年(昭和29年)11月、厚生省は新しい医療体系を中央社会保険医療審議会に諮問した。これに末高は審議会会長として日本医師会の激しい反対の中、ストレプトマイシン、ペニシリンなど抗生物質の薬価引き下げを強行採決した。これに抗議する日本医師会は全員退席した。 主権在民の民主国家、生存権確認の福祉国家、および戦争放棄の平和国家の原理は、わが国家国家成立のための至高の三原理であることにいささかの疑いもないのであるが、国民全体として、果たしてこの三原理を身をもって護持する決意を持っているか、この三原理は、国民ひとりひとりの心のうちに定着しているかとなると、疑いなしとしない。国は、この生存権を保証する義務を有するものであり、従って国民の側からする国への要求の強さによって、その規模、内容が決定する。 「社会保障の生成とその展開」(1967) 晩年には愛知学院大学大学院教授として教鞭をとり、愛知学院大学図書館に寄贈文庫がある。
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