学業不正防止の教員側の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 22:24 UTC 版)
「学業不正」の記事における「学業不正防止の教員側の問題」の解説
学業不正の防止を教授に依存するには限界がある。ある調査では、教授の21%以下だが、少なくとも1つの明瞭なカンニングを無視したとある。別の調査では、学生のカンニングに対して、教授の40%は「決して報告しない」、54%は「まれに報告する」、6%は、「学業不正に直面したときに対処する」とある。教授に関する3番めの調査は、79%はカンニングに遭遇している。しかし9%しか処分しないとある。カンニングに遭遇したときの教授の心中は以下のようだ。 行動しない理由は、対処する時間とエネルギーを使いたくない。感情的な対立を望まない。学生から報復される恐れがある。学生を失いたくない。ハラスメントまたは差別で告訴されたくないなどである。 他にも理由がある。教授のある割合は、罰が厳しすぎると思い、関係当局に報告しない。 大学外の人から見れば、大学教授は論文出版数と獲得した研究助成金額で評価され、学生をどう教育したかでは評価されないので、かなりの大学教授はカンニングの増減に興味がない。 他に、ポストモダン的な見解のためにカンニングを報告しないという理由がある。ポストモダニズムは、「原作者」や「独創性」という概念を疑っている。カルチュラル・スタディーズと歴史主義から、原作者というのは単に彼ら自身の社会環境の構成物である。したがって、彼らは既に出来上がっている文化的物語を単に書き直したのにすぎない。さらに、構成研究(composition studies)の分野では、学生は、グループ研究することが奨励されていて、進行中の修正作業に集団で参加することが奨励されている。ポストモダニズムの視点は「知的過誤の概念は認識論の価値の限界である。ポストモダニズムでは、罪と無罪の相違、公正性と偽造の相違は無関係である」。しかし、ポストモダニズムは単なるモラル相対論(Moral relativism)である。カニングが道義的にも法律上にも間違っていたとしても、有効な方法として許されるという議論がある。 ある教授は次のように書いている。「試験室をそっと眺くと、数人の学生がお互いに相談していた。私は、それをカンニングではないと考えた。教授が課した障害を非伝統的な技術である協力的学習で乗り越えようとしていると解釈した」。問題は、さらに広がる。相対主義が一部の教授の学業不正に関する考え方(不正基準)に影響しているもだ。「中東、アジア、アフリカのある地域からの留学生は、アイデアを個人が所有するという概念に当惑するだろう。彼らの文化では、アイデアや文章は個人財産ではなく社会の共有財産だとみなすからだ」。 教員がカンニングを防止しない別の問題は、教員のある割合は、カンニングの防止は教員の仕事ではないと考えているからである。教育の場では「教員は教師であって、警官ではない」という言葉がよく使われる。経済的に考えると、教員は、学生を教育して給料をもらっている。学生が学業不正をして自分で学ばないなら、それは学生が払ったお金を自分で失っているだけなのだ。
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