姫路時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 01:17 UTC 版)
姫路商業会会長 丸山は1892年(明治25年)から姫路に居住した。 日露戦争において留守第十師団長(姫路)を務めた柴野義広は、大塚武臣(姫路市長)に製革事業を勧める。この背景には姫路がかつて革細工の産地であったこと、捕虜に製革技術に通じたものがいたこと、日本製軍靴の品質に問題があったことなどが挙げられる。丸山はこの事業を引き受け、捕虜を雇い入れて姫路製革所を開いた。製革所は日英博覧会名誉金牌、世界博覧会最高賞を受賞するなど高品質な革製品を産み出した。伊藤長次郎、川西清兵衛などの出資を受けて事業規模を拡大し、当初の製革所は山陽皮革となり、川西が社長に就任し、丸山は常務として経営にあたった。この他播磨水力電気(監査役)、山陽水力電気(監査役)、姫路海産物青物定市場(社長)、姫路信用組合(現姫路信用金庫)の設立に携わり、姫路倉庫、姫路米穀取引所などの役員を勤める。1911年(明治44年)には姫路商業会を設立し、会長に就任した。 政治家 1906年(明治39年)に姫路市会議員となり、次いで兵庫県会議員に選出される。丸山の所属政党は立憲国民党で、党兵庫県支部幹事のほか、郡部会副議長、同議長を歴任した。 1915年(大正4年)の総選挙に姫路市から立候補し、長田秋濤、砂川雄峻を破って当選。帝国議会では精算委員、特産法制定委員であった。 第三十七回帝国議会では公友倶楽部の結成に加わり、常任幹事を務める。勲四等の叙勲を受けているが、これは第一次世界大戦での貢献を認められたためである。 人材育成 丸山は所縁の地の後進育成に私財を投じている。姫路高等女学校、姫路商業の創立にあたっては当局と折衝を行い、開校に貢献。また土地、金品を寄付している。会津会会員、稚松会賛助員でもあり、丸山の援助で大学を卒業した同郷人もいた。
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