奸雄化の過程
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陳寿は、曹操が基礎を築いた魏を継ぐ晋に仕えた史官であるため、曹操に不利益な記述を行うことはなく、正史では曹操はまだ悪玉ではない。しかし当時から曹操の良くない噂は広まっていたようで、裴注の段階では様々な逸話が記載されている。たとえば孫盛の『異同雑語』には当時人物評で知られた許子将が、曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評し、それを聞いた曹操が大笑したという逸話を載せる(なお『後漢書』許劭伝では逆に「清平の姦賊、乱世の英雄」と評したとある)。また、呉側の資料である『曹瞞伝』(作者不明)には、敵国から見た曹操の悪評が記録されている。幼少の日の曹操が、悪行を咎める叔父を中風の振りをして欺く話(第1回)、行軍中「麦畑に足を踏み入れた者は死刑」と布告を出したにもかかわらず、みずからの馬が麦畑に入ってしまった時に、髪を首の代わりに切って切り抜けた話(第17回)など、『演義』に取り入れられた逸話は多い。 この時期における曹操の「悪玉化」を物語る逸話がある。正史は中平6年(189年)董卓の暴政に反撥した曹操が洛陽を密かに脱出し、名前を変えて故郷へ急ぐ途中、中牟(現河南省鄭州市)を通過する際、亭長に捕らえられた後に釈放されたと記す。この件に対し、裴注では以下の3つの異聞を併記する。 太祖(曹操)は数騎の供を連れ郷里へ逃げ帰る途中、成皋の呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢は留守だったが、その子たちが食客と組んで太祖を脅し、馬と荷物を奪おうとしたため、太祖は自ら刀で討ち殺した。 — 王沈(魏)、『魏書』 太祖は呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢は外出していた。5人の子は太祖を客として礼儀を尽くした。しかし太祖は自分が董卓に背いたため、彼らが自分を始末するのではないかと疑い、剣を振るって夜のうちに8人を殺害して去った。 — 郭頒(西晋)、『世語』 呂伯奢の子たちが太祖をもてなそうと食事の支度をしている時、太祖は食器の音を聞いて自分を殺そうとしているものだと思い込み、夜のうちに彼らを殺害した。後に過ちに気づいたが「わしが他人に背くことはあっても、他人がわしに背くことはさせぬ」と言って去った。 — 孫盛(東晋)、『雑記』 魏の王沈は建国の祖たる曹操への遠慮もあり、あくまで曹操の正当防衛という目線で描く。それに対し、西晋の『世語』では曹操の猜疑心が強調され、悪人性が浮上してくる。さらに東晋代になると孫盛は曹操の姦雄性を象徴する名台詞「寧我負人、毋人負我」を盛り込み、さらなる非情さを強調している。裴松之は以上3種の異聞を併記するだけだが、時代を経るに従って小説的な脚色が加えられていく過程が如実に見て取れる。『演義』ではこれらをさらにふくらませ、酒を買いに行っていた呂伯奢までも追走して殺す展開とし、さらに事件の観察者として元中牟県令の陳宮を配することで、曹操の残虐性を解説する恰好のエピソードに昇華させた)。この陳宮と曹操の因縁は、後に陳宮が曹操に叛し、さらに捕らえた陳宮の命を曹操が惜しむ場面への伏線としても利用されている。
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