奸雄化の過程とは? わかりやすく解説

奸雄化の過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)

三国志演義の成立史」の記事における「奸雄化の過程」の解説

陳寿は、曹操基礎築いた魏を継ぐ晋に仕えた史官であるため、曹操不利益な記述を行うことはなく、正史では曹操はまだ悪玉ではない。しかし当時から曹操良くない噂は広まっていたようで、裴注の段階では様々な逸話記載されている。たとえば孫盛の『異同雑語』には当時人物評知られ許子将が、曹操を「治世の能臣、乱世姦雄」と評し、それを聞いた曹操大笑したという逸話載せる(なお『後漢書』許劭伝では逆に清平姦賊乱世英雄」と評したとある)。また、呉側の資料である『曹瞞伝』(作者不明)には、敵国から見た曹操悪評記録されている。幼少の日の曹操が、悪行咎める叔父中風振りをして欺く話(第1回)、行軍中「麦畑足を踏み入れた者は死刑」と布告出したにもかかわらず、みずからの馬が麦畑入ってしまった時に、髪を首の代わりに切って切り抜けた話(第17回)など、『演義』に取り入れられ逸話は多い。 この時期における曹操の「悪玉化」を物語逸話がある。正史中平6年189年董卓暴政反撥した曹操洛陽密かに脱出し、名前を変えて故郷へ急ぐ途中中牟(現河南省鄭州市)を通過する際、亭長に捕らえられた後に釈放されたと記す。この件に対し、裴注では以下の3つの異聞併記する。 太祖曹操)は数騎の供を連れ郷里逃げ帰る途中、成皋の呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢留守だったが、その子たちが食客組んで太祖脅し、馬と荷物奪おうしたため太祖は自ら刀で討ち殺した。 — 王沈(魏)、『魏書太祖呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢外出していた。5人の子太祖を客として礼儀尽くした。しかし太祖自分董卓背いたため、彼らが自分始末するではないか疑い、剣を振るって夜のうちに8人を殺害して去った。 — 郭頒西晋)、『世語』 呂伯奢の子たちが太祖をもてなそうと食事の支度をしている時、太祖食器の音を聞いて自分殺そうとしているものだと思い込み夜のうちに彼らを殺害した。後に過ちに気づいたが「わしが他人に背くことはあっても、他人がわしに背くことはさせぬと言って去った。 — 孫盛東晋)、『雑記』 魏の王沈建国の祖たる曹操への遠慮もあり、あくまで曹操正当防衛という目線で描く。それに対し西晋の『世語』では曹操猜疑心強調され悪人性が浮上してくる。さらに東晋代になると孫盛曹操姦雄性を象徴する名台詞「寧我負人、毋人負我」を盛り込みさらなる非情さを強調している。裴松之は以上3種異聞併記するだけだが、時代を経るに従って小説的な脚色加えられていく過程如実に見て取れる。『演義』ではこれらをさらにふくらませ、酒を買いに行っていた呂伯奢までも追走して殺す展開とし、さらに事件観察者として元中県令陳宮配することで、曹操残虐性解説する恰好エピソード昇華させた)。この陳宮曹操因縁は、後に陳宮曹操に叛し、さらに捕らえた陳宮の命を曹操惜し場面への伏線としても利用されている。

※この「奸雄化の過程」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「奸雄化の過程」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。

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