女性の体育・スポーツ奨励
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 02:17 UTC 版)
可児は女性のスポーツの普及にも尽力している。1922年(大正11年)5月27日に東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の第1回女子連合競技会(女子青年会主催)で可児が審判長を務め、同年に設置された中京高女の家事体操専攻科の設立に当たって最初の体操科教員となった。 同年12月4日と12月5日には「運動をせぬから日本婦人の体格が悪い」と題して読売新聞で訴えた。12月4日の記事では、日本人と西洋人の体格を比較すると男性より女性の方が著しく劣り、姿勢も悪く、すべての運動・動作が軽快さを欠いているとした。その理由は活発な運動を女性がしないからであり、学生時代は運動をしてもその後はしないし、学校で教える運動が社会や家庭でできるものでないと指摘した。続いて12月5日には興味をもってできる運動が良いとして、スキー・スケート・テニス・バレーボール・ランニング・水泳を例に挙げている。また冬でも泳げる水泳場や四季を通じて利用可能な運動場の整備、学校の運動場を時間を限って一般開放するとよいと提言を行った。国華高等女学校長への就任についても「生意気なようだが、スポーツ教育を振興しよう」と考えたと述べている。 1925年(大正14年)には第2回明治神宮競技大会にて女子中等教育学校の生徒4,900人を率いたマスゲーム「明治天皇頌歌ダンス」の指導を行った。この時、永井道明も小学6年生男子児童6,400人を率いてマスゲームを行い、マイクなしの地声で号令したが、可児が率いた女子生徒は池田某の号令でマスゲームを披露した。可児は永井のように号令に慣れていなかったからだと推察されている。 女性の体育・スポーツに関する可児の著書には『女子運動法』(1903年、Klara Hessling Das Mädchenturnenの翻訳、坪井玄道との共訳)、『小学校女子行進運動』(1911年、坪井との共著)、『理論実際 女子体操遊戯』(1922年、高野常政との共著)がある。
※この「女性の体育・スポーツ奨励」の解説は、「可児徳」の解説の一部です。
「女性の体育・スポーツ奨励」を含む「可児徳」の記事については、「可児徳」の概要を参照ください。
- 女性の体育・スポーツ奨励のページへのリンク