失脚、法典編纂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 20:12 UTC 版)
「ミハイル・スペランスキー」の記事における「失脚、法典編纂」の解説
1809年から1812年までスペランスキーはアレクサンドル1世の信任を背景に絶大な影響力を保持した。この頃、皇帝は青年時代の友人たちで、ともに改革案を作成していた「秘密委員会」のメンバーと分かれた。スペランスキーは皇帝の下、孤独の中でひたすら大命を保持し改革に専念した。陸軍大臣で皇帝の寵臣であったアレクセイ・アラクチェーエフ伯でさえもこの時期は、スペランスキーの陰に隠れていた。絶大な権勢を誇るスペランスキーであったが、権力を私することはなく、有能な行政官であり、かつ「官僚的ユートピア」と揶揄される程の理想主義者であった。 前述の官僚昇進試験制度導入や、国会構想は、貴族、官僚を中心とする保守派の憤激を買っていた。スペランスキーは「成り上がり者」、「体制の破壊者」のレッテルを貼られ、フリーメイソン(ロシア語ではマソンストヴォ)との繋がりを指摘されるなど、誹謗中傷も後を絶たなかった。同じく理想主義者というよりも夢想家であった皇帝アレクサンドル1世は、スペランスキーを擁護するには余りにも偽善的な人物であった。結局、ナポレオン戦争を前にスペランスキーはスケープゴートとされ、1812年祖国戦争直前にスペランスキーを国家顧問から解任しニジニ・ノブゴロド、さらにペルミに追放してしまった。 1816年追放が解除され、ペンザ県知事、シベリア総督(シベリア県知事)を経て、1821年ペテルブルクに戻り国家評議会議員として中央政界に復帰する。1825年アレクサンドル1世が崩御するとデカブリストの乱が起こる。スペランスキーはデカブリストに同情的であったようで、反乱を鎮圧した新帝ニコライ1世には完全には信用されていなかったが、貴族に対する信頼を失い、確固たる官僚制の再構築によりツァーリズムの強化を目論むニコライにとって抜群の有能さを誇るスペランスキーの辣腕は何にも代え難いものであった。ニコライ1世はスペランスキーを皇帝官房第二部長官に任命し、ピョートル大帝以来の大事業である法典編纂事業を担当させた。スペランスキーはニコライの要請に応え、1830年(1833年説有り)「ロシア法大全」45巻、1832年「ロシア帝国法律集成」Polnoje Sobranije Zakonov、Full Collection of Laws15巻を完成させた。スペランスキーは、この功績を称えられ伯爵位に叙せられた。 その後、スペランスキーの政治思想は、コンスタンチン・カヴェーリンとボリス・チチェーリンによって研究された。
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