失脚、晩年とは? わかりやすく解説

失脚、晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/18 00:57 UTC 版)

王家烈」の記事における「失脚、晩年」の解説

1934年民国23年)、紅軍長征のため貴州通過しようとすると、王家烈はこれを正面から迎撃ようとする1935年民国24年2月、王は第2路軍第4縦隊指揮に任ぜられたが、紅軍前に大敗喫してしまう。蒋介石は王の無能さ失望し、さらにこれを貴州軍閥解体の機と見たため、同年4月、王を貴州省政府主席第25軍軍長から罷免閑職である軍事参議院中将参議移した後任の省政府主席には国民政府中央から派遣されてきた呉忠信就任し王配下の軍勢中央により直接改組された。ここに貴州軍閥は完全に消滅し貴州国民政府中央により統治されることになったのである王家烈南京市陸軍大学高級班送られ、そこで再学習することになる。1938年民国27年8月、いったんは第20軍団軍団長復帰したものの、まもなく軍事委員会高級参議左遷され以後閑職低迷した中華人民共和国成立後、王は大陸にとどまる。西南軍政委員会委員第1期から第3期貴州省人民代表大会代表、中国人民政治協商会議貴州省副主席などを歴任した1966年8月11日貴陽市病没享年74(満73歳)。

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失脚、晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 09:05 UTC 版)

熊克武」の記事における「失脚、晩年」の解説

1925年民国14年3月熊克武は軍を率いて広東向かい9月広州到着した。しかし、汪兆銘蒋介石は、熊が陳炯明結んで広東軍政府転覆謀ったとの罪名により、熊を収監し、その軍を没収した。これにより熊は、事実上軍事政治の舞台から退場することになる。 1927年民国16年3月末にようやく釈放された。その後国民政府委員任命されたものの、むしろ四川省名士として社会的活動多く従事した中華人民共和国建国後大陸留まり西南軍政委員会副主席全国政治協商会議委員全国人民代表大会常務委員中国国民党革命委員会(民革)中央副主席などをつとめた1970年9月2日北京病没享年86(満84歳)。

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