失脚、晩年
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1934年(民国23年)、紅軍が長征のため貴州を通過しようとすると、王家烈はこれを正面から迎撃しようとする。1935年(民国24年)2月、王は第2路軍第4縦隊指揮に任ぜられたが、紅軍の前に大敗を喫してしまう。蒋介石は王の無能さに失望し、さらにこれを貴州軍閥解体の機と見たため、同年4月、王を貴州省政府主席と第25軍軍長から罷免、閑職である軍事参議院中将参議に移した。後任の省政府主席には国民政府中央から派遣されてきた呉忠信が就任し、王配下の軍勢も中央により直接改組された。ここに貴州軍閥は完全に消滅し、貴州は国民政府中央により統治されることになったのである。 王家烈は南京市の陸軍大学高級班に送られ、そこで再学習することになる。1938年(民国27年)8月、いったんは第20軍団副軍団長に復帰したものの、まもなく軍事委員会高級参議に左遷され、以後も閑職に低迷した。中華人民共和国成立後、王は大陸にとどまる。西南軍政委員会委員、第1期から第3期の貴州省人民代表大会代表、中国人民政治協商会議貴州省副主席などを歴任した。1966年8月11日、貴陽市で病没。享年74(満73歳)。
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失脚、晩年
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1925年(民国14年)3月、熊克武は軍を率いて広東へ向かい、9月に広州に到着した。しかし、汪兆銘と蒋介石は、熊が陳炯明と結んで広東軍政府転覆を謀ったとの罪名により、熊を収監し、その軍を没収した。これにより熊は、事実上、軍事・政治の舞台から退場することになる。 1927年(民国16年)3月末にようやく釈放された。その後、国民政府委員に任命されたものの、むしろ四川省の名士として社会的活動に多く従事した。中華人民共和国建国後も大陸に留まり、西南軍政委員会副主席、全国政治協商会議委員、全国人民代表大会常務委員、中国国民党革命委員会(民革)中央副主席などをつとめた。 1970年9月2日、北京で病没。享年86(満84歳)。
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