失脚、最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 02:47 UTC 版)
このように将軍・幕府権威の向上に腐心した高経であったが、その強権的な政治は諸大名や寺社勢力からの反発を招くに至る。特に高経の3男氏頼の舅であった佐々木道誉(京極高氏)は、かつて自身の推す氏頼を退けて義将を管領とした高経を憎んでいたため、両者は激しく対立する。正平21年/貞治5年(1366年)8月、突如として将軍義詮より領国へ戻るように命じられ失脚した(貞治の変)。後任の管領には道誉が推す細川頼之が就任したため義将の幕政復帰後も斯波氏と細川氏の対立構図は残り、3代将軍足利義満時代の康暦の政変へとつながっていく。 都落ちした高経は幕府の討伐軍に屈す事無く戦い続けたが、貞治6年/正平22年(1367年)に杣山城(福井県南越前町)で死去。享年63。法名は東光寺(後に霊源院)殿道朝日峯。 なお高経の死後、義将はまもなく赦免され幕府に復帰している。
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