天狗党の発生とは? わかりやすく解説

天狗党の発生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「天狗党の発生」の解説

文政12年1829年9月重病伏していた水戸藩第8代藩主徳川斉脩は、後継者公にしていなかった。そんな中江戸家老榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから代わりに斉脩正室峰姫の弟でもある第11代将徳川家斉二十一男清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を迎えるべきだと主張し、藩内門閥層の大多数も、財政破綻状態にあった水戸藩幕府からの援助下されることを期待してこの案に賛成した。これに対して同年10月1日藤田東湖会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統近さから敬三郎藩主として立てるべきと主張して徒党組んで江戸へ越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎後継者にという斉脩の遺書示された。この遺書掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日幕府から斉昭(藩主となり敬三郎から斉昭と名乗る)の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると擁立に関わった藤田会沢らが登用され、斉昭による藩政改革担い手となった。 こうして権力得た一派は、反対派から「一般の人々軽蔑し、人の批判対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年1845年10月老中阿部正弘対し江戸で高慢な者を「天狗と言うが、水戸では義気があり、国家忠誠心のある有志を「天狗と言うのだと主張している。とはいえ天狗党という集団その内部においても盛んに党争集合離散繰り返しており、それぞれの時期においてその編成大きな差異見られる。まず天狗党後述する「勅書」返納問題において鎮派・激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢・潮来勢などの集団があってそれぞれ独自に動き回っていたことから、『水戸市中巻(五)においては一味総称である天狗党呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団限定して使用している。 この時期において天狗党への反対派中心人物となったのは門閥出身結城朝道(寅寿)であった。もともと朝道は斉昭に重用されていたが、穏健な政策志向する結城の下には次第に斉昭の藩主就任反対して弾圧され門閥層や、かつて東湖の父・藤田幽谷熾烈な党争繰り広げた立原翠軒派の残党など、天狗党主導政策反発する者達が集まり次第勢力増していった。斉昭と親密であった水野忠邦失脚すると、後任阿部正弘は、天保15年1844年5月に斉昭を強制的に隠居させ、朝道に水戸藩政の修正命じた。斉昭はその後一時復帰した忠邦によって謹慎解かれ第10代藩主徳川慶篤後見として復権嘉永6年1853年)の黒船来航期に斉昭が幕府から海防参与命じられると、水戸藩では軍政改革中心とした安政改革進められ改革派中心に尊王攘夷派形成された。

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