天保以降の衰退を決定づけた1代で4回以上の不祥事(過失と、迷惑行為など)・木俣典之助成禮
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「天保以降の衰退を決定づけた1代で4回以上の不祥事(過失と、迷惑行為など)・木俣典之助成禮」の解説
天保15年(1844年)、木俣典之進成禮は懲戒処分を受け父の持高を減石されて130石で家督相続を許された。前年9月に病身となった当主名代の届け出に誤って惣領の名(成禮)ではなく、他の同姓者の名を記載して、藩庁に提出していたことが発覚。名代を典之進と書くべきところを、熊之進と書いて役目を勤めた過失により、家の格式・席次は、ついに村井氏の下位に置かれるようになった。この時点で家老の家柄では、完全になくなった。40石分の減石は懲戒処分のほかに改革による減石分も含まれる。 その後も木俣氏は、過失と不祥事が続き、嘉永3年(1850年)、木俣典之進は、江戸から京に出張中に紛失物を出してその責任を問われ、安政4年(1854年)、物頭となっていたが迷惑行為・不身(身持ちを崩したり、又は不品行があったこと)で罷免、そして隠居。 安政4年不祥事の具体的内容を記述した一次史料が現存しているが、本件は、木俣典之進成禮の計画性がないほぼ単独犯であったとみられる。当主自身の軽くはない罪であったので、当主名代を誤って届けたときと同じく、近親者だけでなく、分家の木俣熊之進家をはじめ、従兄弟・大伯父・大伯父の子までにも及ぶ、かなり広範囲の縁坐が適用されて、一族同姓者が懲戒処分を受けた。処分後まもなく成禮は急死した。死因について明記がないが、急死後に認められた家督相続には、なぜか持高の減石処分はなかった(持高130石)。 ここに書いたほかにも、木俣典之助成禮は、細かな規律違反や、懲戒処分を受けた履歴がある。 木俣典之助成禮の懲戒処分は、いずれも権力闘争や政争に敗れたものではなく、本人の非行・不行跡・過失が、すべてである。 馬場町に屋敷があった木俣氏(重郎右衛門・多門家系、小諸における惣領家)は、不祥事を繰り返したことで、連綿する家柄・格式は用人格とされ、役職面では木俣典之進成禮が家督を相続した天保15年(1844年)から、廃藩まで28年間あったが、この家系からは藩の家老職はおろか、用人・加判などの重臣の列からも、外ずされたままの状態が続いた。それだけではなく降格された家の格式より、さらに2階級以上低い役職にしか就任できない有様であった。 木俣氏の天保15年の失脚以降は、懲戒処分を受けても、連綿する家柄・格式の降格は、見て取れないが、藩内における連綿する家柄・格式の相対的順位を、下げていることがある。これは、他の失脚した重臣の家柄を持つ家系が、精勤などにより、その地位を回復してきた中で、木俣氏の連綿する家柄・格式の回復が、行われることがなかったからである。 維新期、重臣以外の役職が与えられていた木俣負靱成文は、重臣や藩主側近の要職を勤めていなかったことも、手伝ったためか、小諸騒動では、謹慎以上の重い処罰を受けることはなかった。木俣負靱成文は外祖父・外伯父に太田氏を持ち、分家が太田氏と厳しく対立したため、動きずらかったものとみられる。 明治3年ごろ、病身となったとみられ、若輩の木俣修が家督を相続して(あるいは当主名代となり)、士分上禄が認められた。木俣典之進成禮の度重なる過失・非行による懲戒処分後の木俣氏(重郎右衛門・多門家系)の廃藩までの役職上の最高位は、木俣負靱成文が病身となる直前の足軽部隊長であったとみられる。その一方で、連綿する家の格式である用人格は、廃藩まで維持していた。
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