多様な交流と才能
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宝暦4年(1754年)、21歳で工藤家300石の家督を継いだ。養父・安世の死の前年のことであった。この頃から40代前半までのあいだは医師として周庵を名乗り、髪も剃髪していた。20代の半ばより医者として名が高まり、30歳の頃には遠国から弟子志願者が来訪するほどであった。 平助は、社交性に富んだ人柄で、藩医でありながら藩邸外に居を構えることを許されていたためもあって、多様な人物とのあいだに幅広い交流関係を築いた。宝暦年間(1751年-1764年)には長崎で幕府のオランダ語通詞を勤めていた吉雄耕牛と知り合い、その後、耕牛は、オランダ商館長の江戸参府に随行した際にもしばしば工藤邸を訪れた。安永年間(1772年-1781年)には江戸蘭学社中の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵・桂川甫周らと交際し、かれらから蘭学的知見の多くを得、また、海外事情を吸収した。蝦夷地への関心も強く、松前藩士等との交流により蝦夷地の事情に精通した。 築地の工藤邸には、患者となった数多くの大名やその藩士、伊達家家中の人びと、桂川甫周や前野良沢をはじめとする著名な蘭学者、姉が6代藩主伊達宗村の側室に上がった縁で仙台藩士となった林子平、尊王思想家・高山彦九郎、南学の流れを汲む儒学者で国学者でもある憂国の士・谷好井(谷万六)、賀茂真淵に師事した国学者・歌人で十八大通にも名を連ねた村田春海など多数の文人墨客が出入りした。とくに、一関藩出身で良沢の弟子である大槻玄沢とは親戚同様のつきあいがあった。玄沢は、学業半ばで国元に帰らなければならなくなったとき、工藤平助の口利きによって一関藩主田村家の承諾を得て再び江戸での遊学を2年延長することができ、また、平助の推挙によりのちに本藩仙台藩に取り立てられている。また、平助と玄沢はともに仙台領内の薬物30種を調査研究して藩政に貢献している。その他、当時人気の歌舞伎役者や侠客と呼ばれた人びと、芸者や幇間さえ出入りしていたという。 安永5年(1776年)頃、平助は仙台藩主・伊達重村により還俗蓄髪を命じられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになる。安永6年(1777年)には、築地の工藤邸は当時としてはめずらしい2階建ての家を増築した。2階にはサワラの厚板でつくった湯殿があり、湯を階下より運んで風呂として客をもてなしたといわれる。平助は、藩命により貨幣の鋳造や薬草調査などもおこない、また、一時期は仙台藩の財政を担当し、さらに、蘭学、西洋医学、本草学、長崎文物商売、海外情報の収集、訴訟の弁護、篆刻など幅広く活躍する才人であった。また、たいへん器用な人であり、みずから料理もつくって客にふるまい、「平助料理」として好評であったという。
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