多様な交流と才能とは? わかりやすく解説

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多様な交流と才能

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:05 UTC 版)

工藤平助」の記事における「多様な交流と才能」の解説

宝暦4年1754年)、21歳工藤家300石の家督継いだ養父安世の死の前年のことであったこの頃から40代前半までのあいだは医師として周庵を名乗り、髪も剃髪していた。20代半ばより医者として名が高まり30歳の頃には遠国から弟子志願者来訪するほどであった平助は、社交性富んだ人柄で、藩医ありながら藩邸外に居を構えることを許されていたためもあって、多様な人物とのあいだに幅広い交流関係築いた宝暦年間1751年-1764年)には長崎幕府オランダ語通詞勤めていた吉雄耕牛知り合いその後耕牛は、オランダ商館長の江戸参府随行した際にもしばしば工藤邸を訪れた安永年間1772年-1781年)には江戸蘭学社中杉田玄白前野良沢中川淳庵桂川甫周らと交際し、かれらから蘭学知見多くを得、また、海外事情吸収した蝦夷地への関心強く松前藩士等との交流により蝦夷地事情精通した築地工藤邸には、患者となった数多く大名やその藩士伊達家家中人びと桂川甫周前野良沢はじめとする著名な蘭学者、姉が6代藩主伊達宗村側室上がった縁で仙台藩となった林子平尊王思想家・高山彦九郎南学流れを汲む儒学者国学者でもある憂国の士谷好井(谷万六)、賀茂真淵師事した国学者歌人十八大通にも名を連ねた村田春海など多数文人墨客出入りした。とくに、一関藩出身で良沢の弟子である大槻玄沢とは親戚同様のつきあいがあった。玄沢は、学業半ば国元に帰らなければならなくなったとき、工藤平助口利きによって一関藩田村家承諾得て再び江戸で遊学2年延長することができ、また、平助推挙によりのちに本藩仙台藩取り立てられている。また、平助と玄沢はともに仙台領内薬物30種を調査研究して藩政貢献している。その他、当時人気歌舞伎役者侠客呼ばれた人びと芸者幇間さえ出入りしていたという。 安永5年1776年)頃、平助仙台藩主伊達重村により還俗蓄髪命じられ、それ以後安永から天明にかけての時期多方面にわたって活躍するうになる安永6年1777年)には、築地工藤邸は当時としてはめずらしい2階建ての家を増築した2階にはサワラ厚板つくった湯殿があり、湯を階下より運んで風呂として客をもてなしたといわれる平助は、藩命により貨幣鋳造薬草調査などもおこないまた、一時期仙台藩財政担当し、さらに、蘭学西洋医学本草学長崎文物商売海外情報収集訴訟弁護篆刻など幅広く活躍する才人であったまた、たいへん器用な人であり、みずから料理つくって客にふるまい、「平助料理」として好評であったという。

※この「多様な交流と才能」の解説は、「工藤平助」の解説の一部です。
「多様な交流と才能」を含む「工藤平助」の記事については、「工藤平助」の概要を参照ください。

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