坂本弁護士一家殺害事件
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1989年11月2日、新実と早川から坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の一人に抜擢されたと知らされる。武道の腕を買われての抜擢であった。早川から「坂本弁護士を殴りたおせ。あとはワシらでやる」と言われ、「殺しに加わるわけじゃない、殴るだけなんだ」と自分に言い聞かせてメンバーに加わったという。この際、新宿で変装用として高い服を購入した為に早川から咎められた。この時、売り場の女性店員からデートに誘われ「このままデートに行って殺人から逃れようかな」と考えたが、麻原から「他心通」で見通されることを恐れて、結局メンバーとの待ち合わせ場所に戻り、横浜へ向かう車中でマントラを唱え続けた。 11月4日午前3時頃、坂本弁護士宅に侵入し、村井秀夫・早川・岡﨑一明・新実・中川智正とともに一家を襲撃した。端本は坂本に馬乗りになって6、7回殴り、岡﨑が彼の首を絞めている間、足を押えていた。坂本の妻に対しては腹部を膝落としで強打した。殺害後、遺体の遺棄を手伝った。 1990年4月、両親が「オウム真理教被害者の会(現オウム真理教家族の会)」のメンバーと共に富士山総本部を訪れた際、警備中の端本を発見。息子が殺害の実行犯だと知らずに、坂本弁護士の行方不明を報じる記事を見せて「オウムはこんなこともやっているのよ」と脱会するよう説得した。「殺害犯は自分なのだと知ったら母親はどれだけ動揺するだろうか」と端本は母親が帰ったあとに泣き、様子がおかしくなったが、麻原に「前世でお前はワシの息子だった」とフォローされ、「あれはポアだったんだ」と自分の中で正当化するようになる。端本はその後も何度か実家の近くにまで行ったが、結局帰ることはなかった。 麻原の俗物的側面を見て不信感を募らせ、教団から脱走を試みた一方で、坂本弁護士事件に加担したことで、自分を「ただの殺人犯」だと認めたくない為に、帰依を求め、教団から抜けられなくなったという。
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坂本弁護士一家殺害事件
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出家してわずか2ヵ月後の1989年11月4日、麻原の指示を受けた中川は坂本弁護士一家殺害事件に実行犯として関わることになる。 坂本宅に侵入し、中川が坂本の妻の首を絞めている時、坂本の子どもが突然泣き出した。驚いた中川は(本人の言によれば、「子どもをなんとかしろ」と自分の心臓からの声に従って)手にしたタオルケットで子どもの鼻と口を塞ぐと子どもはぐったりとした。一家三人惨殺後、中川は虚ろな瞳で誰に言うともなく「はははは…。子どもを殺してしまいましたよ。はははは…。」としゃべっていた。他方で、「息が聞こえるくらいの近さに麻原氏がいるという一体感を感じてうれしかった」とも語っている。 犯行時に中川がプルシャ(オウム真理教のバッジ)を事件現場に落としたため、オウム犯行説が当初から疑われ教団は反論に追われることとなった。だが結局1995年まで真相が明らかになることはなかった。
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坂本弁護士一家殺害事件
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「陰謀論の一覧」の記事における「坂本弁護士一家殺害事件」の解説
詳細は「坂本弁護士一家殺害事件」を参照 事件当初からオウム真理教犯行説が唱えられていたが、1995年の一連の強制捜査まで未解決であった。
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