国民民主党結成と外交・防衛問題
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「三木武夫」の記事における「国民民主党結成と外交・防衛問題」の解説
1948年(昭和23年)末、三木は昭和電工事件で逮捕後保釈されたばかりの芦田を尋ね、「早く帰ってきて一緒に闘おう」と激励した。しかし翌1949年(昭和24年)1月23日に行われた第24回衆議院議員総選挙で民主、社会、国民協同の三党は惨敗を喫し、一方与党の民自党は過半数を確保する。選挙後、民主党内では民自党との連携を進める連立派と、芦田ら野党派の対立が激化した。このような中、苫米地義三は三木に対して民主党が分裂した場合に援助を要請し、三木は了承していた。続いて2月18日芦田は三木に対し、連立派と野党派の色分けがはっきりしたら国民協同党と合併したいが、社会党との提携は時期尚早であると伝えた。一方三木は芦田に対し、社会党の右派くらいまで政策を持っていくべきと主張した。その後芦田は6月に西村榮一から中道政治の復活の見込みはないと言われ、国民協同党との合併話にも消極的となった。またちょうどこの頃から芦田は対日講和では日本の中立維持は困難で、反共運動の必要性を強く感じるようになっていた。 国民協同党と民主党との合併が進まないうちに、1950年2月10日に民主党連立派の保利茂らが民自党に入党し、更に勢力を拡大した。民自党の拡大は民主党野党派と国民協同党との合併話を促進させた。同年3月、三木は芦田のもとを訪れて、新党は社会主義者の一部も参加できるような幅の広いものにせねばならないが、現状では社会党右派との合同は現実的ではないと主張した。しかし芦田は三木の意見に表向き異を唱えなかったものの、新党の人材難、政治資金の不足が喫緊の問題であると見ていた。芦田の見方は的確であり、4月28日、民主党野党派と国民協同党が合併して国民民主党が結成されるが、総裁は置かれず苫米地義三が最高委員長となり、幹事長には千葉三郎、三木は七名の最高委員の一人となった。そして6月4日に行われた第2回参議院議員通常選挙で、魅力的な党の顔を欠く国民民主党は惨敗する。 国民民主党結成前後、三木と芦田との関係は良好であった。芦田は自らが影響力を保持できる苫米地総裁、三木幹事長という人事案に賛成し、一万田尚登日銀総裁ら外部から総裁を招請する案には反対した。このような中、三木は1950年(昭和25年)9月6日から翌1951年(昭和26年)1月5日まで、長期訪米を行う。 当時日本では単独講和か全面講和かの論争が起こっていた。三木や国民民主党若手革新派は全面講和を唱えていたが、芦田は永世中立論に反対し、党の外交方針の転換を図った。このような情勢下、三木が米国から帰国する。三木は帰国後再軍備に慎重な意見を唱えたが、同じ頃芦田は自衛論を唱え、その後三木と芦田の間に外交、防衛問題を中心に亀裂が広がっていくことになる。しかしこの頃はまた双方の間の対立は小さく、国民民主党若手革新派と旧国民協同党系の支持を受けた三木の幹事長就任を芦田も支持し、1951年1月20日の党大会で三木は国民民主党の幹事長に選出された。 三木は再軍備には慎重な意見を表明したが、日本がある程度の自衛力を保持することは避けられないと判断していて、非武装を主張したわけではない。結局、講和条約と日米安全保障条約に対する国民民主党の対応は、三木が講和全権には参加するものの安全保障の方には参加しない方針で党内をまとめた。10月には国民民主党は講和条約、安全保障条約ともに賛成する方針を固めたが、三木は講和に賛成するものの、ソ連や中国との友好関係の模索と、アジア諸国との関係強化を主張した。また安保条約についても米軍の日本駐留を認めながら、その内容が極めて不十分なものであることを批判した。
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