国内販売拡大策の失敗
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1984年(昭和59年)5月、東洋工業は社名をブランド名に合わせマツダ株式会社に改称。同年11月にはロータリーエンジンの生みの親である山本健一が社長に就任し、同時にアメリカへの工場進出を発表した。 1985年(昭和60年)9月、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でプラザ合意が発表されると、1ドル250円だった為替レートは1年後に150円台にまで急騰。自動車を始めとした輸出比率が高い産業を直撃し、とりわけ輸出比率が68%にも達していたマツダは大きな打撃を受けた。円高は自動車各社の目を一斉に国内市場に向けさせ、特に1987年(昭和62年)に創立50周年を迎えていたトヨタは国内シェア50%を目指した「T-50作戦」を展開。他社はその影響をまともに受ける格好となり、円高と国内販売競争の激化でマツダの収益は悪化した。 1987年(昭和62年)12月、円高による業績悪化と自身の腰痛を理由に山本は任期途中で会長に退き、後任には2年前に通商産業省からマツダに転じた古田徳昌が就任。会長の山本、社長の古田、住友銀行出身で副社長の和田淑弘の3人が代表権をもつ3頭体制の下、1988年(昭和63年)5月、マツダは1992年度を最終年度とする中期経営計画「MI(マツダイノベーション)計画」を開始した。「B-10計画」とよばれる国内販売拡大策をその柱とし、国内販売台数をそれまでの約40万台からシェア10%にあたる80万台にまで増やすことで、輸出に依存した経営体質を改め、1ドル100円下でも2兆円の売上と1,000億円の経常利益を確保する目標を掲げた。 「B-10計画」に基づき、マツダは従来の「マツダ」、「マツダオート」、「オートラマ」の3つの販売チャンネルに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2つを加え、トヨタや日産と同等の国内5チャンネル体制を敷いた。3チャンネル体制時に1,500店余りだった店舗数を3,000店近くにまで増やし、600億円を投じて防府第二工場の建設にも取り掛かった。この拡大策はバブル経済期には一定の成果を上げ、1990年(平成2年)には生産台数が140万台にまで達して過去最高を記録。国内販売台数も60万台と最高記録を更新した。1991年(平成3年)には「B-10計画」の後を見据え、「マツダオート」を「アンフィニ」に変更した。 しかしその後、バブル経済が崩壊。それとともに販売台数は急速に減少した。5チャンネル体制はバブル崩壊後すぐにその効果が疑問視されるようになり、長期的にこの体制を維持することが困難であると感じ取った住友銀行は、1991年(平成3年)に同行で取締役を務めた和田淑弘を社長に据えた。マツダは1993年(平成5年)度から3年連続して大幅な赤字を計上。1995年(平成7年)度の生産台数は77万台とピーク時の1990年(平成2年)からほぼ半減し、国内販売台数もわずか35万台にとどまるという惨憺たる状況に陥った。販売チャンネルと車種を増やしたことで営業や生産にかかる費用が増大し、高コスト体質がマツダを蝕んだ。マツダの名ではなく、チャンネルの名称やシンボルマークを冠した商品の投入を続けたことでブランドも毀損した。拡大策は完全な失敗だった。
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