国内身分証明書(パスポート)制度と国境封鎖
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スターリンは、飢饉から逃れようと都市部に流入する農民を監視するために、革命で廃止された帝政ロシア時代の監視制度である国内身分証明書(パスポート)制度を復元させた。 1932年末から1933年初めにかけて国内パスポートが義務づけられたが、コルホーズ農民には国内パスポートが交付されなかった。これにより、農民は移動を禁止され、仕事をもとめて都市に行くこともできなくなった。コルホーズ農民にパスポートが交付されたのは1974年のブレジネフ時代になってからだった。農民以外でも、かつての資本家や元貴族などの公民権を剥奪された人々にもパスポートは公布されなかった。 同時に、スターリンは、ウクライナの国境を封鎖して、農民の汽車旅は禁止され、農民が外へ逃げられないようにした。合同国家政治保安部の武装分遣隊が旅行者を検査し、旅行許可書を持たないものは拘束され、キエフに返送された。ソ連がウクライナとロシアとの国境に軍隊を駐屯させてウクライナを封鎖した目的は、ウクライナに穀物が流入することを阻止するためだったともされる。1月22日、農民の国外脱出が報告されると、スターリンは逃亡農民を「資本主義国家の陰謀の手先」であるとし、1933年2月だけでOGPUの国境警備部隊は、村を逃げ出そうとした22万人のウクライナ農民を逮捕し、そのうち19万人は村に送り返されて死刑となるか、残りはグラーグへ強制移住させられた。 都市へ逃げることのできた農民は、多くが助かることもなく、次々と死んでいった。キエフで死にかけていた女性農民にはウジが湧いていたが、農民を助けることは法律で禁止されていたため誰も助ける者はいなかった。1933年には、ポルタヴァやキエフなどの都市では逃げてきた農民が毎日150人も死亡し、遺体が毎朝片付けられ、中にはまだ息がある人もいたが、連れて行かれた。 飢饉によってキエフでも物資は不足したが、国家官吏、共産党委員会長、OGPU係官、軍将校、工場長らは「閉めた店」で買うことができた。 1933年1月にはコルホーズに機械技術を提供するMTS(エム・テー・エス、機械・トラクター・ステーション)と政治部がソフホーズに設置され、政治部は、コルホーズの役員や党員を多数逮捕したり、更迭し、監視を強めた。
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